「結界取次」とは、教会の広前にある結界に取次者が座って行うフォーマルな取次のことだ。独特の作法もあるし、言葉の響きとしてやや堅苦しい印象もある。教会の敷居も実際のところ教団外の人にとっては高く感じられるものだ。
金光教の教えでは、神も金光大神の取次も世界に遍在していることを示している。だとしたら、教会の外で、神の教えに沿った活動をすることも「取次」と考えられるだろう。実際に「取次教団」として、結界取次以外の活動も積極的に行っていこうという考えを教団はもっているようだ。
こういう考えの方が、多くの新しい宗教団体に共通するものだろう。例えば天理教はひのきしん隊と呼ばれるボランティア活動を行っており、僕も子どもたちの自然体験施設に勤務していた時には、海岸の松枯れ被害の処理で毎年お世話になっていた。駅ではエホバの証人の人たちの街頭活動を見かけることも多い。巨大なアリーナで集会をする教団もあれば、選挙活動に熱心な教団もある。
僕も初めは、広く取次教団としての活動を拡げていくことが当然であるように感じていた。しかし、取次について考えを進めていくうちに、結界取次というものに「取次」の根本要素が編み込まれており、それをこの形態の外で持ち出すことは困難であることに気づくようになった。
一つは「待つ」ということだ。受け身で待つからこそ、想定外の難儀を抱えた人たちを迎い入れることができる。教会の結界の外で動き回れば、もっと多くの人に出会えるかもしれないが、それは自分たちの想定内の人たちを囲い込むことにつながるだろう。
もう一つは「一対一」ということだ。自分たちの想定内のグループであれば、多人数を効率よく扱うことができるだろうが、そこから漏れる一人一人に向き合うためには一対一の時間と場所がどうしても必要となってくる。
つまり社会的な活動の中では、対象となる相手を選り分けることになるし、組織の拡大が役割分担と指揮命令系統(権力関係)を招いてしまうことになる。結界取次の二つの根本要素こそが、あらゆる他者を歓待しながら権力を生み出さないという金光教の実践の要石となっているのだろう。