教会の掲示板の文言が「一、人を当てにしない。一、人を軽く見ない。一、恩を着せない。一、人を利用しない。一、人を責めない。 そうでありたい。」になっている。教団内では「かおりあせ」で有名な高橋正雄の言葉のようだが、順番を変えているそうだ。
偉大な先人の言葉でも、金科玉条のように墨守しないで、自分の心にかなうように変更して受け取る、というのが金光教の流儀なのだろう。今新刊で手に入る高橋正雄の本は、本人の著作集のままではなくて、編者が部分的に手を入れてしまっているのが僕には不思議で残念に思っていたのだが、そういう背景があるのだと腑に落ちた。
今、第三回の金光教研究会の準備で、取次について考えているので、そのことを話す。僕は、井手先生のところに入門してから、金光教の核心は取次にあって、神と取次者と難儀な氏子との三者関係にあると気づいた。一般的な宗教は、自分自身の救済や悟りが第一の目的だから、超越者と人間との二者関係で足りる。しかし、金光教は「人が助かる」ことを目指す。そのために、助かるべき氏子という第三項が必須になるのだ。
僕はひとまずこれで納得したが、その後井手先生と話しても、野中先生に話しても、どうもそこまでの説得力がない。これは僕の「発見」が浅いということだろう。
僕は最近になってようやく、取次の三者関係の要は、氏子が取次者と向き合う第一段階(人の領分)と取次者が神に願う第二段階(神の領分)との間に次元の違いがあることだと気が付いた。
このギャップ(亀裂、隙間、ズレ、遊び、ゆるみ)があるために、神の権威や力能が直接現世に及ぶことはない。金光様の取次でも、見知らぬ他者と一対一で向き合う他ないのだ。たいていの宗教のトップは神の権威を直接まとってしまうために、一度に大勢の人に説教をし、組織と権力の拡大に走ってしまうことになる。高橋正雄の言葉が自由に読み変えられるのも、人の領域での権威化を解除する仕組みのおかげだろう。
井手先生は、僕のわかりにくい説明を聞いて、さらりと、タイムラグという言葉に置き換えて受け取られる。若々しく柔軟な精神にはいつも驚かされる。我々だって、いつ神様からお暇を出されるのかわからないのだからと言って笑う。
帰りがけ、いつものように先生からネパール語についての質問がでる。僕の今までの解説が、ノートにびっしり書き込まれている。その中で、前回僕が間違ったことを先生に説明してしまったことが発覚して冷や汗が出る。