今月の金光教研究会では、「おかげ」について取り組んだ。来月の研究会では、本丸の「取次」に挑もうと思っている。徒手空拳の無謀な試みだが、せっかく与えられた勉強会の機会なのだから、最重要の論点から逃げるわけにはいかない。
まず、僕の前提として、金光教というものは、現代日本の宗教、哲学、思想等の精神的・実践的な営みの中で最重要で最も優れたものである、という確信がある。これは一般的にはまだ共有されていない評価だろう。では、なぜそう言えるのか。
これを教外者という立場を最大限利用して、粗削りであれ、何とか説明してみたいというのが研究会における僕の目的である。柄谷行人信奉者の流儀で言えば、金光教の「可能性の中心」を取り出してみたいということだ。ちなみに、かつて教団の中枢にいながら教外者の視点に立ってこれを行ったのは高橋一郎(『金光教の本質について』)だったように思う。
もちろん、金光教は他の民衆宗教を始めとする宗教に似ているし、様々な実践的な思想ともよく似ている。ふつうに眺めればそこに相対的な優劣を見つけることしかできないだろう。しかし金光教が上記のような前提のものだとしたら、柄谷の思考にならって考えれば、原理的な場面で抜き差しならない断絶や飛躍を行っているはずである。
それは、取次という場面以外は考えられない。
取次は教祖金光大神が生涯をかけて取り組んだものだし、歴代の教団代表である金光様が本部広前で継続していることだ。金光様は、毎日早朝から夕方まで本部広前に座って参拝に来るすべての信奉者に対して取次と祈念を行っている。全国の教会でも教師が取次を行っている。
これらは教団にとって日常の風景なのだが、教外者にとっては真に驚くべき事態である。
僕も今年三月に本部を訪問し、金光様と対面して取次を受けている。大教団のトップと、アポイントもなく一対一で対面できる宗教団体など、金光教以外存在しないだろう。
これが金光教の流儀だ。だから今教えを受けている行橋教会の井手先生にも、北九州八幡教会の野中先生にも、誰からの紹介も受けず、アポもなく突然訪問して話を聞いていただき、自然と今の関係を作ることができた。
取次について、とりあえず僕は次のような理解をもっている。
多くの宗教は、超越者(神、仏、天地、宇宙)と信者との関係は、二者関係であり、この二者において「救済」や「悟り」が目指されることになる。人間は他者と共に生きる存在だから、第三者に対する「愛」や「慈悲」も語られるのだが、原理的に言って二者関係から派生したものに過ぎない。まず何より自分の救済や解脱が第一なのだ。
一方、金光教が目指すのは、自己の救済や解脱ではなく、「人が助かること」だ。だから、助かるべき他者が、原理的な場面で排除されることなく、必須の第三項として含まれているのだ。神と取次者と「難儀な氏子」という三者は、金光教の要ともいえる取次において、決して解消されない等根源的な要素となっている。
僕がふらりと本部を訪問して、広前にお参りする。素性をあらためられることも信者であるかどうかの確認もなく、教団トップの金光様の前に招かれて、願いを聞いてもらうことができる。まるで、歓待されているような気持ちにすらなる。
これは二者関係を原理とする一般の宗教ではありえないことだろう。信仰のベースを三者関係へと開く中で、氏子(他者)の扱いがいわば神と同格になっているからこその待遇だろう。