大井川通信

大井川あたりの事ども

こんな夢をみた(鉄砲水)

今回の夢も断片的なのだけれども、情景がとても鮮やかだったので、書き留めておく。

場所の見当は、今住んでいる地域だ。国道の向う側のあのあたりという目星は着くのだが、実際のその場所とはまったく似ていない。夢の中の架空の土地といっていいのだが、にもかかわらず地図上のあの辺という思い込みが成立する夢が多いのはなぜなのだろう。

(僕の夢理論で言えば、夢における自由奔放なイメージの奔流に対して、慣れ親しんだあの場所と直感的に理解する作用が無意識に働いている、という解釈になる)

そこは、国道からの脇道で、くねくねと曲がりながらなだらかにさがっていく。自転車を妻と一緒に走らせていたように思う。雨が降り出した。その時悪い予感がする。土地が低いことが気になったのだ。戻ろうとするのだが、なだらかな坂の上から足元に水がながれてきて、水量が増す気配だ。まずい。

そのとき急に水かさが増して、正面から人間の背丈くらいの白い水しぶきが襲いかかる。僕たちは、わきのやぶに入って、なんとか流されまいとする。見た目は恐ろしかったが、衝撃はたいしたことがなかったなと夢の中で考える。

道の途中で広場みたいになっているところがあって、そこに大きな屋敷の門と塀がある。ここには、けっこうたくさんの人たちが集まっている。広場は水でいっぱいになってきたので、僕は塀の上にあがる。水が引くまでここで夜を明かすことになるかもしれない。その時、大きな黒塗りの車が上流から走ってきて、何事かアナウンスするが聞き取れない。

 

ヒトとの別れ/モノとの別れ

勉強会仲間の吉田さんが倒れた。幸い、心臓のカテーテル手術で回復し、一週間程度の入院ですんだそうだ。ただ、組織に所属しないで、身体や心の強さなどの個人の力で人生を切り開いてきた吉田さんには、今回の「臨死体験」は相当なショックだったという。

数年前まで三人で勉強会をしていた仲間である安部さんも、先々月に倒れ、今月初めにようやく手術ができたもののまだ回復できていない。主人のいない玉乃井の玄関は閉ざされたままだ。展覧会の途中だった玉乃井の中には、安部さんのコレクションや関わったモノたちが、キャプションつきで展示されているだろう。コレクションといえば、吉田さんも膨大な映画関係の書籍や資料をもっている。

こうなると、僕も自分の死について身近に考えざるをえない。今月の勉強会でも、九死に一生を得た吉田さんとの話題は、当然そのことになる。吉田さんの話は生々しく具体的なものだが、僕はそれを聞きながら、漠然とこんなことを考えた。僕には、ちょっとした「発見」と思えることだ。

人が死ぬ。様々な人間関係からの退場を余儀なくされる。しかし、人間関係というのは相互的なものだから、たとえその人がいなくなっても、相手方が主体的にどうにかやっていくだろう。そもそも人間関係は、出入りや入れ替わりを前提として作られている。新陳代謝は、むしろ組織の発展には必要なものだ。

昔、柄谷行人が、葬式とはどこか残酷なところがあると書いていたのを読んだことがある。それは確かに死者に思いをいたし、その死を悲しむ場所だ。その一方で、死者をこの世の人間のネットワークから追放し、死者が不在の新たなネットワークの構築を確認する場所でもある。

「去る者は日々にうとし」というように、死んだとしても、残された人々がなんとかうまくやってくれるし、その不在もやがて忘れられてしまうのだろう。しかし、モノとの関係はどうだろうか。

猫と暮らすようになって、ペット界隈の事情を知るようになり驚いたことは、ある程度の年齢になるとペットを購入できなくなることだ。高齢になったら新たな人間関係を作ってはいけない、などといったら大変な人権問題になるけれども、ペットがあくまでモノとして所有物と考えられていることからの原則だろう。しかし、この原則は、モノとの関係では、人の死という穴をふさぎようがないことを表している。

このふさぎようのない穴を、実際にはふさがざるをえないための制度としてあるのが「相続」というものだ。有限でもろい存在である人間に、絶対的な私的所有権をフィクションとして認めてしまったがために、その帳尻をあわせるための「相続」という仕組みは、きわめて乱暴なものとなる。何しろ少人数の疎遠だったりもする親族に、持ち物をすべて丸投げしてしまうというのだから。

死に臨んで、何より考えなければならないのは、この理不尽ともいえるモノとの別れにどう対処するか、ということではないかと気づいた。

 

 

 

手にふるる野花はそれを摘み

田んぼの片隅に、彼岸花が姿があらわす季節がやってきた。田園風景を身近に暮らしていると、3月の菜の花、5月の麦秋、10月のコスモスなど、あたりを塗り替えてしまうような大きな景色を楽しむことができる。彼岸花は本数は少なくとも、あちこちにできた深い傷口のような深紅が印象的だ。

もちろん野原には、名前もわからない質素な花が、ところどころ小さく咲いている。思わずその内の一本に手を伸ばしたとき、この詩句が頭に浮かんだ。

「手にふるる野花はそれをつみ/花とみづからをささえつつ歩みを運べ」

若いころに暗唱した詩句は、今でもするすると口先にでてくる。伊東静雄(1906-1953)で間違いないと思ったので、帰ってから詩集で探すと、「そんなに凝視(みつ)めるな」の中の詩句だった。

伊東静雄の詩は不思議だ。言葉が特別に華麗だったり、鋭かったりするわけではない。ぎくしゃくして意味がとれにくく、凡庸なことを詠んだだけに見えることも多い。にもかかわらず、ゆるがせにできない言葉の結晶として、いつまでも耳に残る。心の深みに残る。小さな白い花のついた茎を手に持って、帰り道に考えた。

花と自らを支えるものは誰なのか?

歩みを運べと命じるのは何者なのか?

 

オニオントーストとゴーゴリの『鼻』

長いこと行きつけのパン屋さんがある。石窯で焼いたパンの種類が豊富で、一日中お客さんが多い。駐車場もたっぷりあって、店もこぎれいで明るい。店員さんたちもテキパキとして気持ちいい。なにより、パンが美味しい。

紙コップのコーヒーが無料でいただけるのもうれしい。普通のパン屋なら、ここも有料にして売り上げを伸ばそうとするだろう。顧客本位の心意気がいいね、と何度家族に話したことか。貧乏性の僕は、この店でだけ、コーヒーにサービスのクリームを一匙入れる。

今日も、朝早く、妻を博多の彫金教室に送るために車で家を出て、朝食のパンを買うために、この店に寄る。目の前で焼き立てのパンのトレーをもってきたのでのぞくと、オニオンベーコントーストだという。美味しそうなので買って、いつものように紙コップのコーヒーを手に車に戻る。

一口食べると、うまい。なんだこのうまさは。

そうか、オニオンて、玉ねぎのことだったな。シャキシャキした玉ねぎと、とろりとしたチーズとベーコンのうま味が重なって、ホカホカのトーストの上で絶妙な味覚のハーモニーを奏でている。

それで、僕は、大好きなゴーゴリの荒唐無稽な短編『鼻』の冒頭を思い出す。

理髪師の男は、朝食のパンの中に、お客の役人の「鼻」だけが潜り込んでいるのを見つけて仰天するのだが、その朝食のパンには玉ねぎがそえてあるのだ。本当は、パンと玉ねぎのほかにも、コーヒーが欲しいところなのだが、奥さんがそんな贅沢はゆるさない。コーヒーを飲むなら、パンと玉ねぎはあきらめることになる。

僕の方は、パンと玉ねぎのほかにも、無料の美味しいコーヒーまでついている。この至福の朝食にほくそえんだ。

 

 

 

再びビアスのこと

この際だからと、現在手に入るもう一冊のビアスの短編集、光文社古典新訳文庫シリーズの一冊を取り寄せて読んでみる。全14編のうち岩波文庫との重複は、4編のみだ。翻訳はこちらの方がいいような気がする。ただし、巻末の解説はダラダラと長いばかりで、焦点の定まった読みがないのは期待外れ。

読後、はっきり良いと思えたのは、ここでも「アウルクリーク橋」と「チカモーガの戦い」のみ。古い岩波文庫西川正身訳で読み返してみると「空飛ぶ騎手」(さわりの部分を比較しても岩波の新訳は問題あり)がやはりいいので、味読に値するのは、どうやらこの3編しかないような気がする。

芥川は「鋭い技巧家」と評したが、実際はジャーナリストの余技でしかなかったのだろう。怪談ものは、思い付きを書いているだけのようで面白くはない。南北戦争ものは、実際の生死をかけた従軍の経験に基づいているだけに、水準が高い。

その中で、この3篇が小説として成功しているのは、情景の切り取り方が格別だからだろう。アウルクリーク橋での処刑と逃走の緊迫感はいうまでもない。チカモーガで、幼児に「率いられる」敗残兵の敗走の群れの姿は衝撃的だ。

「空飛ぶ騎手」の構成と翻訳について触れてみる。まず、戦場の説明。次に、歩哨兵の人となりの説明と馬上の敵兵の出現と射撃。さらに、がけ下で敵兵の「飛行」を目撃する士官の証言。最後に、射撃後の歩哨兵の告白。

見事な起承転結の構成になっている。特に転の部分における第三者の視点の導入によって鮮やかなイメージがとらえられ、それが結末のオチを際立たせる。だから崖下の士官の役割は重要だ。

彼は自分が見たものが信じられなかったけれども、敵兵がそんな危険なふるまいをする以上、崖から降りる道はないのだと判断してそのことを上官に報告する。上官は夜襲のために敵陣に通じる道があることを知っているので、部下の誤った報告に微笑する。岩波新訳では、逐語訳のためこのやりとりが意味不明なものとなっており、消化不良のまま結末を迎えることになってしまう。

 

 

『お役所の掟』 宮本政於 1993

四半世紀前に話題になって、よく売れた本。当時読んで面白いと思った。今読み返しても、少しも色あせてなくて、いっそう面白かった。

著者は日本で医学部を卒業したのち、アメリカに留学して現地で精神分析医となり、大学の研究者にもなる。11年にわたるアメリカ生活のあと、帰国して当時の厚生省の医系技官となる。

著者の経歴からして、この本に描かれたような窮屈な官僚生活など合うはずがない。どうしてこんな選択をしたのだろう。ただし、この本が面白いのは、そのあまりに場違いな環境における身を挺した悪戦苦闘の記録だからだ。実際、この本の出版の二年後には著者は厚生省を懲戒免職となり、1999年には若くして病死している。日本文化の牙城たる官僚との無益な戦いが、彼の身体を蝕んだんだろうか。

著者の官僚生活は、僕が若いころの勤め人時代と重なっている。その当時の日本社会の集団主義の有り様を克明に綴っていて、僕にもはっきり思い当たるところがある。たしかにバブル崩壊以降の「失われた30年」で、集団主義的なメンタリティはだいぶ薄まってはいるだろう。しかし、その原型の歴史的な記録として貴重だ。

歴史的、といえば、この本のなかでは、この集団主義が日本経済の生産性に貢献しているという議論が普通に書き込まれていて、隔世の感がある。当時は、にもかかわらず日本社会の国際化のためにはそれではいけない、という論調だった。現在では、集団主義こそが個々人の創造性を奪い経済の停滞をもたらす元凶という主張が一般的だ。

精神分析医としての著者の文章は、職場における日本的な人間関係を分析して、わかりやすく明晰だ。それが時代を隔てても、読むに値するものにしているのだろう。それだけでなく、僕自身が長年職場で不器用に関わってきたものの正体の記録としても、僕には生々しくて目が離せない。

 

『西光万吉』 師岡佑行 1992

「水平社宣言」の起草者として名高い西光万吉(1895-1970)の評伝。その後、部落解放運動を離れ、転向して国家主義者になるなどぱっとしない印象だが、本書を読むとそのイメージが間違いなのがわかる。

たしかに水平社の立ち上げと宣言の起草は立派だが、当時は青年期特有の疾風怒濤の中にあった。5年近い投獄ののち、国家社会主義者へ「転向」してからは、日本神話に基づく「高次的タカマノハラの展開」を主唱し、私有財産を否定してこれを「皇産」へ奉還することで搾取と権力のない社会を実現するための運動に全力で奔走する。

敗戦後は、「和栄政策」を主張して、憲法の平和主義に基づく非暴力の「和栄隊」を組織して世界に貢献することを亡くなるまで主張し続けた。被差別者の解放から、国民同胞の解放そして世界人類の解放へ。西光は思索と運動の歩みを止めることはなかった。晩年の講演会では、水平社宣言の話を望む聴衆の期待に反して、西光は過去を振り返らず、和栄施策について熱く語ることしかしなかったという。

西光万吉の生涯に視点を合わせると、水平社宣言ですらその初期の一エピソードであるかのように見えてしまう。左翼運動に権威のあった時代には、西光の「高次的タカマノハラの展開」や「和栄政策」は荒唐無稽で空想的なものと評価されたのかもしれないが、批判的運動の多くが失墜し、むき出しのグローバリズム国家主義が露わな現代においては、西光の真正面からの「正論」がむしろ新鮮に感じられもする。

もう20年前になるが、著者の師岡先生には、ある勉強会の席上で何度かご一緒した。その時サインしていただいた本をようやく読むことができて、ほっとしている。

 

『直感でわかる数学』 畑村洋太郎 2004

数学は苦手だったにもかかわらず、今でもたまに読み物風の入門書などに手を出してしまう。わかるようになりたい、という気持ちがどこかに残っているのだろう。たいていは開くこともないけれども。

この本は、ブックオフで200円で買ったもので、積読の運命にさらされていたのだが、思い立って読んでみた。そして驚いた。とにかく、よくわかるのだ。活字も大きいし、絵や図も多い。どうせ途中で振り切られるだろうと思っていたが、たやすく最後まで目を通すことができた。

三角関数」「行列」「虚数」「微分積分」「確率」など、高校の数学で習いながら、何のことやらさっぱりわからなかったことが、とにかく腑に落ちるように説明してある。数学を専門としない工学者の著者が、自分の中にもあった数学へのもやもやを晴らして、文系の高校生にも数学が理解できるように、徹底してかみ砕いた成果といえるだろう。

ここには、わかる、ということへの深い考察がある。著者の考えを、僕の言葉に置き換えて説明してみよう。数学は、論理の世界の学問だ。その論理の世界にはまり込んでしまった数学者なら、論理自体をそのまま抽象的に理解することができるだろう。しかしそんな数学者によって書かれた教科書は、およそ一般人向きではない。

一般人である僕たちは、日常生活をベースにして、考えることを含む行動によって、世界を理解するために様々なテンプレート(鋳型・雛形)をつくっている。形式論理の世界のエッセンスを引っ張ってきて、このテンプレートに当てはめることができたときにはじめて、僕たちに「わかった」が成立する。この本は、それぞれのアイデアの発生にさかのぼって、それが何を目指していて、どんな風に役立つものであるかを、日常の論理にひきつけて説明してくれる。

僕みたいな文系人間に、高校数学にリベンジしてみようかなと思わせるくらいの快作だ。

 

長男の転職

この9月から、長男が新しい職場で働いている。昨年12月に前の仕事を辞めて、実家に戻ってから、転職に8カ月くらいかかったことになる。二月にコロナ禍が始まり、リーマンショックをこえる経済停滞といわれ、一時は緊急事態宣言で外出すらできないようになった。本人が一番にやりたかった業界は、コロナ禍の直撃を受けてにっちもさっちもいかなくなった。

ほんの数か月前は、一年をめどに何とかできたらいいねとか、半ば冗談で、ネットの商売で活路を見出したらとかいう話をしていた。あせってもしょうがないこともあったけれども、僕は、長男のことをあまり心配する気にはならなかった。子どものときから散々心配して、おせっかいを焼いてきたにもかかわらず。

前の仕事での経験談を聞いたり、求職中の家での態度をみているうちに、彼はもう大丈夫だ、僕などよりずっと上等の人間になっている、という実感がわいたのだ。僕なりに今までいろいろな人間を見てきたところからの確信だった。結果的に、その直感に基づく予感は的中した。

7月以降、前の仕事が職歴になる業界に志願書を出すようになると、続けて内定が出るようになった。今は転職市場での仲介がビジネスになっている。キャリアを活かそうと思えば、仲介業者が適切なマッチングをしてくれる。このシステムは、僕が若いころにはなかったものだ。

25歳の夏は、僕も3年で会社を辞めて実家に戻り、アルバイトニュースを見て先の見通しもなく進学塾で働き始めたときだった。今の長男よりずっと未熟で、考えのないふるまいで家族や周囲を傷つけていた。

ともあれ、人生は長いようで短い。彼のこれからに幸いが多いことを祈る。

 

ヒラトモ様の祭壇

以前、ヒラトモ様のお参りをした時に、ふと個人的な遥拝所を作ることを思いついた。年々、里山も荒れて、枯れた竹が道をふさぐようになり、ヒラトモ様を祭る山の頂上へ登るのが難しくなっている。

もうしばらくの間、僕以外で、お参りをしてホコラの落ち葉を取ったりお供えをしたりしている人がいる形跡はない。お供えの木の根がぶちまけられていたり、江戸時代の古銭が無くなっていたり、勝手な解釈のメモが残されていたりということがあったくらいだ。

隣村の山頂に祭られたクロスミ様には、山のふもと近くに簡素な祭壇をしつらえた遥拝所があって、お年寄りなどはそこでお参りしていたと聞く。僕はヒラトモ様に、自宅にお参りの場所をつくりたい旨のお願いをして、お供えの木の根を一つお借りすることにした。古墳の跡だったらしいホコラの周辺には、大小の石が散乱している。ホコラの屋根に使われている自然石と見た目の似ている石の欠片をひろって、それも神様の依り代としてお借りすることにした。

その二つを自宅のガレージに保管しているのだが、怠け癖のある僕は次のステップに進めずに、そのままになっていた。そのくせに、時たま思い出しては、まちがって家族が捨ててしまいはしないかと心配したりしていた。

それが最近になって、裏庭の片づけをした妻が、ヒラトモ様の祭壇を作ったという。意外に思ってみると、箱庭のような植木の奥に石と木の根が祭られている。ただ、あそこだと雨に濡れて木の根が腐ると小言を言ってしまった。せっかくの好意なのに妻を怒らせてしまったかもしれない。

何日かしてみると、こんどはガレージの屋根の下に小さな棚の再利用で祭壇がつくられて、ヒラトモ様の石と木の根が祭られている。日本酒の小瓶まで供えられていた。

博多の旧家で育った妻は、神様のお祭りやお参りにかけては、僕などよりもはるかに本格的で身についている。僕の「計画」をしっかり覚えていたのだろう。山頂のヒラトモ様にお参りしたことはないものの、絵本を描いてもらったから、ヒラトモ様の成り立ちやお供えの木の根の意味もよくわかっていて、この不遇な神様への同情もあったのだろう。

僕は妻に頭をさげるしかなかった。

 

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