大井川通信

大井川あたりの事ども

ヒトとの別れ/モノとの別れ

勉強会仲間の吉田さんが倒れた。幸い、心臓のカテーテル手術で回復し、一週間程度の入院ですんだそうだ。ただ、組織に所属しないで、身体や心の強さなどの個人の力で人生を切り開いてきた吉田さんには、今回の「臨死体験」は相当なショックだったという。

数年前まで三人で勉強会をしていた仲間である安部さんも、先々月に倒れ、今月初めにようやく手術ができたもののまだ回復できていない。主人のいない玉乃井の玄関は閉ざされたままだ。展覧会の途中だった玉乃井の中には、安部さんのコレクションや関わったモノたちが、キャプションつきで展示されているだろう。コレクションといえば、吉田さんも膨大な映画関係の書籍や資料をもっている。

こうなると、僕も自分の死について身近に考えざるをえない。今月の勉強会でも、九死に一生を得た吉田さんとの話題は、当然そのことになる。吉田さんの話は生々しく具体的なものだが、僕はそれを聞きながら、漠然とこんなことを考えた。僕には、ちょっとした「発見」と思えることだ。

人が死ぬ。様々な人間関係からの退場を余儀なくされる。しかし、人間関係というのは相互的なものだから、たとえその人がいなくなっても、相手方が主体的にどうにかやっていくだろう。そもそも人間関係は、出入りや入れ替わりを前提として作られている。新陳代謝は、むしろ組織の発展には必要なものだ。

昔、柄谷行人が、葬式とはどこか残酷なところがあると書いていたのを読んだことがある。それは確かに死者に思いをいたし、その死を悲しむ場所だ。その一方で、死者をこの世の人間のネットワークから追放し、死者が不在の新たなネットワークの構築を確認する場所でもある。

「去る者は日々にうとし」というように、死んだとしても、残された人々がなんとかうまくやってくれるし、その不在もやがて忘れられてしまうのだろう。しかし、モノとの関係はどうだろうか。

猫と暮らすようになって、ペット界隈の事情を知るようになり驚いたことは、ある程度の年齢になるとペットを購入できなくなることだ。高齢になったら新たな人間関係を作ってはいけない、などといったら大変な人権問題になるけれども、ペットがあくまでモノとして所有物と考えられていることからの原則だろう。しかし、この原則は、モノとの関係では、人の死という穴をふさぎようがないことを表している。

このふさぎようのない穴を、実際にはふさがざるをえないための制度としてあるのが「相続」というものだ。有限でもろい存在である人間に、絶対的な私的所有権をフィクションとして認めてしまったがために、その帳尻をあわせるための「相続」という仕組みは、きわめて乱暴なものとなる。何しろ少人数の疎遠だったりもする親族に、持ち物をすべて丸投げしてしまうというのだから。

死に臨んで、何より考えなければならないのは、この理不尽ともいえるモノとの別れにどう対処するか、ということではないかと気づいた。