大井川通信

大井川あたりの事ども

北風に人細り行き曲がり消え

『覚えておきたい虚子の名句200』から。

どうしても教科書やアンソロジーで知っていた句ばかりが目についてしまうのは、名句としてのパワーと味わってきた経験の蓄積があるから、仕方ないのだろう。

その中で、初読ながら、ガツンとやられた句。

北風の中を歩く人の後ろ姿が次第に細くなり、やがて遠くの角を曲がって見えなくなってしまう。それだけをたんたんと見つめて写し取っている。

望遠レンズの向うで、遠くの人影が蜃気楼のなかで揺らめいて見える映画のシーンをまずは連想した。しかしそのシーンにあるような熱や光の強さはこの句にはない。

もっと抽象的で、一筆書きで描かれた略画のような印象だ。それは村野四郎の詩「塀のむこう」のもつ乾いた恐怖に近い感じがする。

「さよならあ 手を振り/すぐそこの塀の角を曲って/彼は見えなくなったが/もう 二度と帰ってくることはあるまい(中略)地球はそこから/深あく欠けているのだ」

今回、書き写してみると、「風」「細」「曲」「消」という漢字が並ぶ。人の命が、風前の灯火みたいなロウソクの炎に例えられている気もして、これも面白い。

 

 

低山の恐怖

前々回は、水落山登頂の成功し、前回は迷ったものの何とか高松山に登頂できた。できればこの二つの低山の間の縦走をしてみたい。最初の水落山登山の時にもそれを試みて二つくらいのピークをたどって、竹林の密集した谷の前で断念している。

高松山で迷ったときも、それと知らずに水落山方面に峰をかなり歩いて、谷に下がる道のところで引き返している。僕の勝手なイメージでは、それぞれの山から谷一つ向かい合ったところまで進んでおり、そこさえ越えれば両者は結びついて縦走が可能になるはずだった。

そこで、こんどは水落山の方から峰を伝い、コンパスで方向を確認したり、ボイスメモに周囲の様子をしゃべって録音することにした。これは高松山の周辺で山の中を堂々巡りした恐怖と反省に基づく「対策」だ。ただ今回はやむを得ず出発が午後遅くなり、夕方からは雨の予報が出ているのが気になってはいる。

難なく見覚えのある竹林の谷にたどりつき、そこを突破する。しかし予想に反して、谷の向うは見覚えのない景色だ。仕方なく峰に沿って道らしきものをたどると、今度は低木がやぶのようになった谷に出た。なるほどこれこそが前回反対側から見た谷だったのだ、と勇んで強行突破する。

しかし目論見は外れる。コンパスの方角もあやしくなってくる。ただ、ここまで来て引き返すことはできないと前に進むと、またしても谷が。これも下りかかるが、しかしどうも道らしくなくなっている。思い返すと、途中からまったくテープのサインを見なくなっていた。

急に恐ろしくなって、引き返す決心をする。前回の反省で途中の道の特徴を覚えながらきたのでなんとか迷うことはなかったが、急な谷の上り下りで体力を消耗している。目的があるときは何でもなかったが、引き返すという不毛な作業では疲労が重くのしかかる。時刻も気にかかる。イノシシもこわい。この無謀な挑戦を心底後悔した。

ようやく水落山にたどり着いたときには、本当にほっとした。ちゃんとした準備と装備が用意できるまでは、もう山には入るまいと心に決める。

 

 

虚子名句二題

一年半ばかり前、日本近代文学会の企画展で、近代詩人たちの自作朗読を聞く機会があった。急ぎ足での訪問だったので、じっくりとは聞けなかったが、やはり朔太郎の声には感激した。初老のやんちゃなオジサン風なのがいかにも朔太郎らしかった。

三好達治の「いしの上」は一番好きな詩なのだが、地味な朗読にはそこまで心を動かされない。意外だったのは、高浜虚子の朗読に強く魅かれたことだ。あらためて自分が虚子好きなのに気づいた。だから先日の読書会で、虚子の名句集を読めたのはうれしかった。何度も反芻してきた名句を二つ。

 遠山に日の当りたる枯野かな

周囲は夕闇がせまる枯野だが、遠くの山並みの一つは夕日をうけて輝いている。こんな情景には、実際に何度も出会ってきて、そのたびにこの句を思い出してきた。いやむしろ、この句に教えられた認識の枠組みによって、広々とした夕景の中から、この情景の対比を切り出していたのかもしれない。それは次の句も同じ。

 流れ行く大根の葉の早さかな

小川をのぞき込むたびに、そこを思いの外の速さと滑らかさとですべる落葉などに視線を吸い寄せられる。この句の導きで、何か流れるものを探している自分がいるのだ。

ところで、前者の句は、国木田独歩の『武蔵野』に引用されていた記憶があってのぞいてみると、実際には蕪村の「山は暮れ野は黄昏の薄かな」だった。こちらは山と野で明暗のコントラストが逆転して、淡いものとなっている。

同じく『武蔵野』には、こんな記述があった。「大根の時期に、近郊を散歩すると、此等の細流のほとり、到る処で、農夫が大根の土を洗つて居るのを見る」

後者の句は、視覚的な驚きばかりではなく、こうした農村の姿を思いやってのものなのだろうが、今ではその生活的な背景は全く失われている。

駅舎の椅子

ようやく国立駅の駅舎も駅前ロータリーに復元されたようだが、コロナ禍で東京に行く機会もなくなったので、まだ目にしていない。ただ、復元途中の様子から、実際の駅舎として使われるのではなく「文化財」として保存・活用された建物は、気の抜けたハリボテのように見えてしまうのではないか、という気もする。

久しぶりのリアルの読書会で、折尾駅を利用すると、すっかり整備が進んでいる。迷路のように入り組んでいた構内は、近代的なターミナルとして生まれ変わった。国立駅と同じ大正時代の駅舎は取り壊されてしまったが、新しい駅舎にはシンボルとしてそのデザインが引き継がれている。

それはいかにもまがいものなのだが、素っ気ない現代風の駅ビルよりはずっといい。ふと見ると、ホールにはかつてのクラシカルな丸い椅子が再現されている。よく見ると、二つあるうちの一つは古い部材が使われていて、復元したものなのだろう。

かつての駅舎は木造で、ホールに立った柱を木で囲って円形のベンチが作られていた。僕は折尾駅の近くの職場に数年間勤務したことがあるが、車での生活だから日常的に使っていたわけではない。ただ、両親が遊びに来た時、この駅で待ち合わせたことがあって、この椅子に座っていた姿勢のいい父親の姿をよく覚えている。

こういう手に触れられる調度が実際に受け継がれていると、まったくのレプリカにも命が吹きこまれるような気がするから不思議だ。

今日は、父親が亡くなって15年目の命日。駅舎の椅子に座って、父をしのんだ。

 

 

こんな夢をみた(皮膚が波打つ)

突然、僕の身体に異変がおこる。

身体の内側で、ボール状の異物が動き回り、皮膚がボコボコと波打ち始めたのだ。足から腹へ、腹から胸へ。

SF映画で、エイリアンの子どもが体内に入り込んで、皮膚を突き破って出てこようとするシーンがあるが、ちょうどあんな感じだ。その映画の場面が、わが身に振りかかるとは信じられないが、皮膚がボコボコと隆起する感覚は強烈で、事実なのはまぎれもない。どうしよう。

やがて、夢うつつの僕に、別の感覚がやってくる。僕の寝室に紛れ込んだ猫のリボンが、僕の掛布団の上を歩き回りながら、前足を交互に踏みつける例のフミフミをやっているのに気づいたのだ。

体重3キロにみたない子猫の軽めの「指圧」なのだが、夢の世界では、体内に入り込んだ恐ろしい異物の胎動へと変換されたのだろう。

 

高校の事務室で

読書会仲間のGさんと話していて、彼の出身校の話題になった。近隣の名門校で、入学時期を 聞いてみると、どうやら僕がその学校の事務室で働いでいた頃のようだ。もう30年近く前のことになる。そのことを告げると、彼の口から意外な言葉が飛び出した。あなたを覚えていますよ。

彼は、高校の事務室で奨学金の説明を受けたことがあったそうだ。まだ世の中のしくみがまったくわからない彼に対して、子ども扱いせずにていねいに制度の説明をしてくれたのが印象に残っているという。その時の事務員の面影が僕にあるということらしい。

地元の進学校だから、いろいろな種類の奨学金の募集が来ていて、僕はその事務の担当だった。後に大学在学中に芥川賞をとる作家の名前も、学生名簿の中にあったのを覚えているが、彼はその作家の二学年下だったそうだ。

仲の良かった教員の名前を出すと、彼も良く知っていて当時のエピソードで盛り上がる。図書室によく通っていたそうで、僕が図書室で知り合った学生のことも知っていた。その学生とのかかわりのことは以前ブログに書いたことがある。

僕は若いころから、ロックミュージシャンの佐野元春が好きで、誰に対しても態度を変えないオープンな語り口にも魅かれていた。海外のロックスターはたとえ小さな子どもでも大人に対するように話しかける。だから僕もそうするのさという佐野のインタビューを読んだ記憶もある。

おそらく30年前の僕も、佐野元春にならって、誰に対しても対等に話すことを心がけていただろう。読書会仲間のGさんが、高校時代に出会ったのは、まず僕でまちがいない。職業人生にはまるで自信のない僕も、こんな話には救われる思いがする。

 

ooigawa1212.hatenablog.com

 

金亀子(こがねむし)擲(なげう)つ闇の深さかな

読書会で高浜虚子の句集を読む。やはり人口に膾炙した名句のいくつかに引き付けられる。教科書やアンソロジーで親しんできた付き合いの深さが、句の理解と関係してくるのかもしれない。その中でも、今回は、この一句が僕の中では圧倒的だった。漢字が難しく振り仮名をいれるとゴタゴタして見えるのが残念。

投げうつ、とは力強い動作だ。静かな観照や挨拶や滑稽やらの器である俳句の中心にこのようなダイナミックな身体所作が据えられるのは珍しいだろう。

しかし、この動詞の一語が、座敷と天井に吊るされた電球、その明かりに誘われて飛び回る虫たち、座敷の外の庭の暗がり、あるいはにぎやかな家族と食事の様子などの舞台を一気に浮かび上がらせて、命を吹き込む。

ところがそれらのにぎやかな舞台装置は、たちどころに後方に追いやられ、黄金虫が吸い込まれる漆黒の闇が主役となって、句の世界が完成する。

僕は昔からこの句を読むと、僕の育った実家の茶の間を思い出す。茶の間には出窓があって、出窓の外は家族が「原っぱ」と呼んでいた雑木林だった。夏になると実際にコガネムシやカナブンが入り込んでくることも多かった。

身近に自然が無く、完全密閉の現代住宅で育つ世代には、もうこの句の情景を味わうことはできないのかもしれない。

悲劇二題

近所の低山で山道に迷ったことを書いた。大井川歩きの原則を貫いているため、登山の後も重い足を引きずりながら、ボロボロになって家にようやくたどり着く。これはその直後の話。

遅い昼食を食べに行こうと、駐車場から車を出す。いつものように右方向へ。その時ズッズッズッとブロック塀と車体のこすれる音が聞こえてきた。ハンドルを切るタイミングが早すぎたか。24年間使っている駐車場で初めてのことだ。車体には何筋ものみにくい傷が残ってしまった。やれやれ。

原因は二つ。登山のダメージで判断力が極度に落ち込んでいたこと。さらに、車にセンサーがついて、自分で車体回りを確認する意識が薄れていたことだ。もともと至近距離からの巻込みではセンサーも反応する余裕がない。

この原因の背後に、老化による衰えという真因がひそんでいるのは言うまでもない。

先日、仕事である式典に来賓として参加した。当日朝、招待状の内容をたまたま読み返していると、「祝辞をお願いします」という小さな活字が目に入った。30分後には出発しないと間に合わない。職員の力を借りて、なんとか原稿を間に合わせて、壇上の来賓席で推敲し、それなりにこなすことができた。

ほかに祝辞を述べたのは、国会議員や首長など。当日朝に気づいたのは偶然だから、会場ではじめて祝辞の義務を知った場合のことを考えると、本当にぞっとする。

これも原因は二つ。祝辞の依頼が出欠確認のハガキの添え書きだけであることは通常考えられない。しかし主宰者側の余力(の無さ)についても想像力を働かせるべきだった。もう一つは、依頼の有無にかかわらず、式典の意味合いと職務上の立場を勘案して、祝辞を予測するプロ意識が欠如していた。

この原因の背後に、老化による衰えという遠因がひそんでいるのは言うまでもない。

 

うその思い出

エイプリールフールに上手な嘘をついた思い出はない。特別な日にちを頼りにしなくとも、ふだんからいくらでも嘘をついているためかもしれない。嘘というよりホラというべきだろうが。

僕は、いつもスキがあれば人を笑わせようとしている。笑いをとるためには、相手との関係や状況に応じて、いろいろな手法を使い分けないといけない。そのうちの一つがホラだ。

僕の冴えない日常を知っている職場の人などに、金曜日の帰宅時に「今から六本木のクラブに寄って踊ってきます」とか、バレンタインデーの日に「トラックを三台チャーターして待機させています」とかいうホラ話を、ついついしてしまう。面白いか面白くないかはともかくとして。

ただし今から書くのは、少年時代の悲しいうその話だ。子どもの頃は、家が貧乏だったためか、夢と現実の区別があいまいだったためか、単なる見栄っ張りだったためか、友人にうそをつく羽目におちいり、あとで苦しむということが何度もあったような気がする。

しかし人間の記憶というものはありがたい。本当に苦しかったはずの具体的なエピソードの方は、ほとんど思い出せないのだ。少年時代が薄明るいモヤの中に沈んでくれたら、それも幸せかもしれない。その中で、今でも覚えているのは、野球盤をめぐってのエピソードだ。

小学生時代はボードゲームが全盛期で、ボーリングゲームや人生ゲームなど高価な新手のゲームが子どもたちの購買欲を誘っていた。僕はそれらをはじめからあきらめていたが、ある時、親せきか親の知人から、古い野球盤ゲームをもらったことがあった。

いかにも古びた野球盤だったけれど、それでもうれしかったのか、新しい野球盤を買ったと友人につい話してしまったのだ。そうすると、当然友人は遊ばせてほしいといってくる。僕はなんとかそれを断るために苦心する。

しかし、このエピソードの結末がどうなったか、まるで思い出せないのだ。おそらく、友人の前に古い野球盤を気まずく出したのだろうが、その痛い記憶を心はすっかり拭い去ってしまったのだろう。

 

 

高松山で道に迷う

我が街の境界となる西の丘陵の最高峰「水落山」を征服したからには、その並びの高峰「高松山」にも登頂したくなる。雑草と有害生物の季節はもう目の前だ。週末に意地悪のように天気が崩れるが、なんとか晴れた土曜日に勇んで家を飛び出す。

高松山は200メートル弱で、水落山より50メートル程低い。しかし、大井の枝村の釈迦院地区に間近くそびえていて、こんもりとした山の姿は遠くからでもよく目立つ。大井川歩きを始めてから、いろんな思いで見上げてきた山だ。真下の林の中には公設の葬祭場があるから(縁起でもない話というのだろうか)僕も家族もおそらくは、この山の麓で煙となるはずだ。

今は「宝冠山」と呼ばれているが、明治初年に編纂された『福岡県地理全誌』では大井村の山岳として「高松山」として説明されている。大井の人間としては、こちらを採りたい。「村の西にあり。山麓釈迦院より絶頂へ八町。草山。松少し立り。平険相半す」

奥にある隣町の集落をぐるりと回って、整備された登山道で冠山に登る。千年ばかり前にこの山で入定し生きながら仏となった上人を山頂近くのホコラでまつっている。これに因んで弥勒山とも呼ばれていたという。ここにもまたミロクだ。

冠山の山頂はかつての山城で、ここまでは何回か見学に来たことがある。ここから先は正規の山道はない。ただし地図によると、尾根伝いにしばらく歩けば、水落山から高松山へと続く尾根に合流する。その尾根を右折して上がるとすぐに高松山の山頂にぶつかるはずだ。ネット上の登山者の記事を見ても、さほど困難なルートではない。

赤いテープをたよりになんとか尾根の合流点までたどり着いて、目当ての方向を歩いても山頂の標識は見当たらない。行き過ぎたのかと思って戻ってきても、こんどは合流点すらが定かでなくなる。落ち着こうと倒木に腰をかけて水を飲み、これだと思える方向に歩きだすが、かなり歩いてたどり着いたのは、その同じ倒木だったときには恐ろしくなった。登頂をあきらめようとも思ったが、帰り道さえわからない。

その時、一筋の光明となったのが、樹々の隙間から見えた大きな山だった。こんな山は、近隣には隣町にしかない。しかし、今まではそちらを自分の町の方向と思って山を探していたのだ。つまり、峰の合流点で右折せずに、なぜか水落山の方向に左折して峰を歩いていたのだ。道理でアップダウンを繰り返すばかりだったはずだ。

その謎が解けると、進むべき方向もはっきりする。倒木が多い斜面で登りがきつかったが、あっさり高松山の山頂にたどり着いた。帰り道も、確かに合流点のあたりの林はわかりにくかったが、なんとか尾根伝いに冠山までたどり着くことができた。ただその帰り道の遠かったこと。目的達成の欲望にかられているときの人間のエネルギーのすごさを思い知らされた。