大井川通信

大井川あたりの事ども

悲劇二題

近所の低山で山道に迷ったことを書いた。大井川歩きの原則を貫いているため、登山の後も重い足を引きずりながら、ボロボロになって家にようやくたどり着く。これはその直後の話。

遅い昼食を食べに行こうと、駐車場から車を出す。いつものように右方向へ。その時ズッズッズッとブロック塀と車体のこすれる音が聞こえてきた。ハンドルを切るタイミングが早すぎたか。24年間使っている駐車場で初めてのことだ。車体には何筋ものみにくい傷が残ってしまった。やれやれ。

原因は二つ。登山のダメージで判断力が極度に落ち込んでいたこと。さらに、車にセンサーがついて、自分で車体回りを確認する意識が薄れていたことだ。もともと至近距離からの巻込みではセンサーも反応する余裕がない。

この原因の背後に、老化による衰えという真因がひそんでいるのは言うまでもない。

先日、仕事である式典に来賓として参加した。当日朝、招待状の内容をたまたま読み返していると、「祝辞をお願いします」という小さな活字が目に入った。30分後には出発しないと間に合わない。職員の力を借りて、なんとか原稿を間に合わせて、壇上の来賓席で推敲し、それなりにこなすことができた。

ほかに祝辞を述べたのは、国会議員や首長など。当日朝に気づいたのは偶然だから、会場ではじめて祝辞の義務を知った場合のことを考えると、本当にぞっとする。

これも原因は二つ。祝辞の依頼が出欠確認のハガキの添え書きだけであることは通常考えられない。しかし主宰者側の余力(の無さ)についても想像力を働かせるべきだった。もう一つは、依頼の有無にかかわらず、式典の意味合いと職務上の立場を勘案して、祝辞を予測するプロ意識が欠如していた。

この原因の背後に、老化による衰えという遠因がひそんでいるのは言うまでもない。