大井川通信

大井川あたりの事ども

老前整理で持ち物を考える

今回、ここ何十年で記憶にないくらい徹底的な持ち物の整理をしている。きっかけは、コロナで死に直面した体験だけれども、それ以降、整理の手がとまらなくなったのは、別の原因が大きい気がする。

それはおそらく、僕が新しい仕事や生活を始めようと考え、それに向けて一から計画を立て始めていることと連動しているのだ。具体的に生活や生き方を変えるということは、頭の中で考えているだけではどうにもならない。自分の持ち物を手に取り、手を加え、取捨選択し、配置し直すという作業が、どうやら不可欠みたいなのだ。

「持ち物」というモノは、ふだん当たり前のようにそこにあって、空気のようなものだから、その意味をあらためて考えることもない。けれど、本質的には、その人にとっての「道具」であり、人間が「道具」を使う動物と定義されるように、それは持ち主を深いところで支える、無くてはならない契機なのだろう。

新しい生活を考えるためにも、持ち物はそのための「道具」となる。必要な情報を、僕は自分の持ち物の書類の中から探し出し、今後の生活に不要と思われる書類を処分する。新しい生活の方向が決まれば、それが基準になって、すべての持ち物の優先順位が書き換えられる。

たとえば、蔵書であったら、新しい仕事のジャンルに関係する本が抜き出されて、それが目立つ場所に置かれることになるだろう。

ところで、今回の整理は、新しい仕事のための整理であると同時に、そもそも「老前整理」、つまり老いという生活を迎えるための整理だった。老いとは、自分の能力が衰え、自分がコントロールできる道具の数が減り、道具を扱える残り時間も少なくなるというプロセスだ。

だから、道具の優先順位を変えるだけでは足りない。道具自体の絶対数を減らし、本当に使える道具を、衰えた自分でも使いやすく身の回りに配置していくことが肝となるのだろう。

 

 

 

 

 

 

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ボンちゃんの誕生日

七夕は、ボンちゃん(リボンちゃん)の誕生日だ。女の子らしくていい誕生日だと思っている。

今日で、ボンちゃんも一歳になった。家族になって、ちょうど半年である。先輩猫の九太郎との関係もそれなりに落ち着いてきた。日中は、たいてい妻の机の回りに一緒にいるが、特別な場合でないと、にらみあったり喧嘩したりすることもなくなった。

よく観察していると、二匹の間には、暗黙のルールみたいなものができていることに気づく。

僕が、そとからゲンゴロウのはいったビンを持ち込んだときのことだ。朝起きてみると、九太郎が玄関わきの棚にあがって、じっとビンの中のゲンゴロウを見つめている。一晩中、見ていたのかもしれない。よく動く虫を目の前で見ることができて、興味津々だ。

リビングの床に下ろしてあげると、あいかわらずにビンから離れないが、きっちり30センチの距離を保っているのが、繊細くんの九太郎らしい。

そこへボンちゃんがやってくる。こういうときは、九太郎が、うーっと威嚇する。ボンちゃんはひるんで、後退する。しかし、すぐそのあとで、九太郎は、棚のかげに移動して、何食わぬ顔で身体を舐めたりしている。あれほど、ゲンゴロウに執着していたのに、わざとビンの見えないところに移動したのだ。ボンちゃんにゆずったとしか思えない。

ボンちゃんは、九太郎とは違い、ビンに近づいて、臭ったり、触ったりしていたが、やがてあきてその場を離れてしまった。

誕生日用の猫のケーキを買っておいたが、妻がいっこうに準備しないので僕は寝てしまい、九太郎の一歳や二歳のときみたいに家族で祝うことはできなかった。人間でも猫でも、二番目の子どもにたいしては、どうしても雑になってしまうみたいだ。

 

 

カエルくんの獲物

我が家の玄関先には、ブリキのカエルの人形が置いてある。素朴なカエルの造形なのだが、起き上がった姿勢で、左肩に棒のようなものを担いで、人間みたいに歩いている姿だ。

その担ぎ棒の先端に、セミの抜け殻が二個ついている。よく見ると、空だった右手のてのひらにも、セミの抜け殻が二個ついている。カエルくん、獲物を四匹捕まえて、意気揚々と家族のもとに帰るところ、に見える。

実際には、地中から出て来たセミの幼虫が、何とか安全に羽化できる場所を求めて、このブリキの人形のもとに集まったわけだ。今のところ、我が家の庭で見つけたセミの幼虫は10匹ばかり。かなりの確率で、ブリキのカエルくんのお世話になっている。

これには理由がある。二年前に我が家の外回りのリフォームをして、荒れるに任せていたレッドロビンの生け垣を引っこ抜いて、擬木のフェンスに変えてしまった。玄関わきの花壇をつくったり、庭に低木を植えたりしたが、セミの幼虫が使える木は激減してしまった。

羽化できる木が少なくなると、羽化に失敗するリスクも高まるのだろう。まだ夏の初めだが、一晩中歩き回っても羽化の場所を見つからずに弱っている幼虫をすでに二匹見つけている。こうした幼虫は、良さそうな木につかまらせても、もう羽化する力はなく落ちてしまう。

また、羽が伸び切らずに飛べない成虫を一匹見つけた。おそらく小さな直物の茂みなどの不十分なスペースしかないところで羽化してしまったのだろう。ケヤキのずいぶん高い枝にも抜け殻があったりするが、セミの幼虫は、少しでもリスクを下げるために、本来はより高くより先の枝を求める習性があるはずなのに。

そんなわけで、我が家のカエルくんはセミたちの救世主だ。次の利用者のために獲物を取り上げてスペースを作ってあげておくことにしよう。

 

 

 

 

 

 

次男の子育て(介護の仕事)

次男が特別支援学校で就職活動を始めるときに、夫婦でどんな仕事がいいかよく話し合った。結婚してから、夫婦で一番真剣に言葉を交わしたテーマだったかもしれない。

次男は融通が利かずに、ちょっと不器用なところがある反面、集中力はある。だから、副担任の先生からは、彼はクリーニングの洗濯物を畳むような単純作業をすすめられた。妻は保護者対象の職場見学会に行って、一日中肥料の袋を重ねるような単純労働の実態にショックを受けていたから、それには反対した。

僕も反対だった。無言での単純作業の繰り返しでは、人間的に成長することも難しいし、転職に役立つようなキャリアアップもできないだろう。人目につかない職場環境ということも気になる。

それで、次男には介護職をすすめることで夫婦の意見は一致した。確かに3Kと言われるような厳しいイメージのある職場だが、仕事の中で人とのふれあいがあるし、仕事を通じてスキルアップできれば、需要は多いはずだから同様の仕事に転職することも可能だろう。利用者や訪問客の人目で守られているという側面もある。

しかし、就職はなかなか決まらず、正式決定は卒業式の翌日だった。最後に職場実習に行った施設の印象は初めはよくなかったようで、妻から間接的に、「ボクにはこんな仕事しかないんだろ」と次男が言っていると聞いて、悲しい気持ちになった。

あれから4年。大小のトラブルを乗り越えて、次男は今でも毎日、片道一時間半の時間をかけて同じ介護施設に通っている。最近、「ボクは介護の仕事が向いているかもしれない」とつぶやいていたと妻から聞いて、なんとも救われた気持ちになった。

年長者との会話が得意で、他人の気持ちがよくわかる次男の良さが発揮される場面もきっと出て来たのだろう。彼がこの先、長く幸せな一生を送るために必要な親のサポートはまだまだある。それを果たすために、この世界に無事戻れたことを、神に感謝。

 

10年日記の効用(その3)

こうして自分の50代の日々を通覧できる資料が手に入った。「仕事大全」のファイルも同じだけれども、そのずっしりとした重みを味わって、何度もぺらぺらとめくったりして、一冊へと物質化された時間を素手の感覚で扱うことが重要だ。僕たちがこうした作業抜きに、日常的な時間を超えた長期のパースペクティブを我が物とすることは難しいだろう。

ただ、充実した50代の時間を具体的に手にすると、それ以前の資料の不在が気になってしまう。区切りがいいだけに、これと同じものが5冊あれば、自分の人生が網羅できたはずなのに、ということが気になるだ。これはこれで、自分の人生の全体のボリュームを想像する手がかりにはなるのだが。

そんなことを考えているうちに、この10年の日記の余白の頁に手を加えることで、それ以前の半世紀の人生についても具体的に想像を届かすための工夫ができることに気が付いた。

日記には、12月31日の頁の次に「一年を振り返って」という表題の一頁がある。一頁が10分割された小さな記入欄だから、僕は毎年ここに自分にかかわる「五大ニュース」を書くようにした。すると、この頁が10年を振り返る一番コンパクトで便利な資料となった。実際の日記の記述を読み返すことはほぼ不可能だから、10年の振り返りはこの頁だよりとなっている。

であれば、この頁のあとに続く自由記入欄に、同じような書式で40代以下それぞれの10年分の重大ニュースの頁を作れば、その5頁の追加で、自分の人生の全体を通覧できる資料となるはずだ。

日記はなくとも、手帳やノートや手紙など断片的な資料をひっくり返せば、複数の重大事件を書き出すことくらいはできるだろう。3年前に母親が亡くなって実家も手放すようになったとき、実家との交流の形見と思って、30代と40代の二十年の記録をまとめておいた実績があるので、そこから転記すればいい。20代までの記録は未整理だが、若いころの方が資料も多く記憶も確かだと思う。

こんな面倒な振り返りをしておくのも、「老前整理」の一部となるにちがいない。

 

田島様まで歩く

かつての聞き書きなどを読むと、かつて近在の村人や子どもたちは、大きなお祭りのときなど田島様(宗像大社)まで平気で歩いていたようだ。大井川歩き復活のイベントとして長距離を歩きたいが、今の体調では里山に入るのは不安がある。田島様までは片道4キロで往復の限界に近いが、道のりは平たんで、人家も尽きない。

まずは地元の和歌神社にお参り。本社に礼拝したあと、その脇に並ぶ小さな社に順番にお参りしていく。そして最後に振り向いて、ヒラトモ様の鎮座する山頂に頭を下げる。かつてのこの作法を教えてくれたのは誰だったろうか。ヒラトモ様まで上がるのはまだ先のことになるだろうが、正式の遥拝をして、良い気分になる。

水をはった田んぼに見渡す限り、ダイサギが点在している。普段はアオサギの色合いのほうが目をひくが、緑の水田をバックにすると断然シロサギが目立つ。南国(亜熱帯)的な風景だと思う。

田島様にお参りして、帰りかけた時、急に右足の指の付け根が痛くなって、歩きにくくなる。試しに簡単なストレッチをすると、あっけなく痛みがひいてしまった。衰えた身体をだましだましコントロールする技術を身につけなければと思う。

この時期、田んぼの電線には、ホオジロが多い。ある個体に双眼鏡を向けた時、少し違和感があった。首の回りに濃い茶色のエプロンみたいな帯があったのだ。戻って図鑑を確認すると、たしかにホオジロには首から腹にかけて薄茶色一色で、帯などはない。

初めて見るホオアカだったのだろうか。それともカシラダカ。まだまだ鳥見にも修行が必要だ。

ハシボソガラスが数羽で畑地におりているが、これにもちょっと違和感が。一羽が一羽に向かって口を開いて追い回すような仕草をするのだが、追われる側のカラスは頭が海坊主のように巨大なのだ。その場を離れると普通のハシボソガラスの見た目に戻ったので、頭の羽を逆立てていたのだろう。帰り道には、同じカラス同士が、民家の屋根の上でくちばしでつつき合っている。求愛行動の一種だったのだろうか。

二時間半かけて家に戻る頃には、天気予報通り小雨が降りだしてきた。玄関先のケヤキの下でバットと木刀を振る。すぐに大きく成長するケヤキはやっかいだが、夏には日陰をつくり、雨宿りの場所にもなる効用がある。

 

 

 

 

10年日記の効用(その2)

今年はいろいろな意味で区切りの年になりそうだが、ちょうど自分がつけている10年日記の最後の年になる。

日記は、小学校の低学年の時から中学生まで、父の勧めで、というより完全に強制でつけさせられた。小学生の間はときどき父親がチェックして、つけていないと怒られた記憶があるが、そのおかげで小学生の頃の生活を振り返る記録となっている。

しかし、それ以降、年度当初には日記やノートをつけようと決意する年があっても、せいぜい3月くらいで自然消滅するのがいつもだった。3年連続日記にも挑戦したことがあるが、やはり効果はなかった。

それが、10年前、どうして連続日記に挑戦しようと思い、さらにここまで書き切ることができたのだろうか。毎日のスペースが小さく、手帳などを見てまとめ書きができるというメリットはあるが、それだけではないはずだ。

僕の誕生日は年末だから、50代に突入した直後にこの日記をつけ始めたことになる。この10年間が定年までの自分の50代をすっかりカバーするという自覚があったはずだ。と同時に、自分がある程度元気で自由に活動できる見込みがある最後の期間であるという思いもあったのだと思う。毎年、少しずつ小さくなっていく余白の紙面を見ながら、それをかみしめた。

あらためて読み返すと、この50代は、僕の平凡で貧しい人生のなかでも「収穫期」といっていい手ごたえのある期間だった。そうなった理由の一つに、この連続日記による生活のマネジメントの効用があったのも間違いないだろう。

この年末には、僕は新しい10年連続日記を手に入れるつもりだ。次の10年は、それがどこまで続くのか、どんなリスクがあるのか、まったく保証のない期間となる。しかし、今回のコロナ禍で一度失った生命だと思えば、まったく拾い物のオマケのような恵まれた時間でもあるだろう。

次は毎年毎年の完走が、いっそう明確な目標になる。あたらしい10年連続日記とのつきあいがどんな風なものになるのか楽しみだ。

 

 

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アゲハの羽化

朝出勤する時、駐車場の裏のブロック塀に、見たこともないような美しい大きな蝶が止まっているのに気づいた。透明にかがやく羽に、艶やかな帯の彩りがある。印象は新鮮なのだが、デザイン的には見たことがあると思っていたら、普通のアゲハ蝶(あとで図鑑で確認すると、正確にはキアゲハ)だった。

ブロック塀の少し下には、小ぶりのセミの抜け殻みたいなものがついているが、それがこの蝶のサナギで、おそらく昨晩に羽化したアゲハは、ここで十分に身体が固まるのを待っていたのだろう。

羽化したてのセミは純白で神秘的に美しいが、アゲハもまだ変色の過程にあって、だから印象がまるで違って見えたのだと思う。まだ一度も使っていない羽。生まれたての生命は美しい。

我が家の駐車スペースは北側にあって、裏の家との段差もあるから、少し湿っぽい。だから、たまに珍しい虫や生き物に出会うことがある。引っ越ししたてで、周囲の自然も今より多かったときは、ヤママユガみたいな巨大が蛾が訪れて、妻をびっくりさせたりした。大きなアオダイショウが這っていたこともある。

近ごろでも、不可解なデザインのイシガケチョウの姿を見ることができた。駐車場には、里山に鎮座するヒラトモ様を勧請したばかりだ。いろいろな生き物の参拝があれば、ヒラトモ様も喜ぶだろう。

 

6月30日

6月は、1日に僕の緊急入院と命の危機から始まった激動の一か月だった。入院中はいうまでもなく、16日に退院してからの後半も、職場復帰やリハビリに神経を使い、仕事でも私生活でも新たな再出発に向けて動き始め、中身の濃い毎日だった。

この先どれくらい生きられるかはわからないが、僕はこの6月を忘れることはないだろう。ここで経験したこと、考えたことをしっかり心と身体に刻んでおきたいと思う。

今日は退院後2週間で、初めての病院の検査と診察があった。肺のレントゲンも血液検査も良好であるとのこと。ただし、ステロイド薬は段階的に量を減らしながら、8月まで飲まないといけない。診察室で会う主治医は、病棟よりもずっと穏やかな人に感じられたが、懐かしかった。

朝、今年初めて庭でクマゼミの声を聞く。在宅勤務の長男から、秋には都心にマンションを借りて家を出るという予定を聞く。一昨年の冬に仕事を辞めて家に戻ってから、コロナ禍の中、再就職を決めた仕事もどうやら軌道に乗ったようだ。

長男には、巣ごもり中に落ち込む妻を支えてもらい、今回は、家族の闘病を支えてもらった。彼も自分の人生のピンチに家族や猫に癒されただろう。彼が家にいる間に、僕も自分の新生活のために、いろいろ相談にのってもらわないといけない。

6月30日は、夏越大祓式(なごしおおはらえしき)の神事が、全国の大小の神社で行われる日だ。半年間のケガレを清めて、新しい生活に一歩踏み出すことができるように、僕も祈ることにしよう。

 

 

 

新聞をやめる

今年度は定年退職の年で、それなりの感慨はあったけれども、あと5年間は生活のために同じような仕事を続けるつもりでいた。ところがコロナ体験で、この貴重な期間をもっと別のことに使いたいと思うようになった。

そうなると今の仕事とは、あと九か月で完全に縁が切れることになる。そう考えた時の解放感がすごかった。今の職場や仕事に不満はないのだが、30年間蓄積してきたストレスが大きかったのだろう。

しかし今まで庇護されてきた組織から離れて、新しい環境で自分の力で生きていくとなると、まずは経済的に不安定になるだろうし、老化が進行する中で身体(体力、知力)への負担が大きくなるだろう。この二点の課題をクリアーしなければならない。

今、猛烈に身辺整理を始めているのも、物事との関わりをシンプル化して、残された自分の身体資源をできるだけ有効に効率的に使おう、というねらいをもっている。初めは無自覚だったが、片づけをしながら、その効用に気づくようになった。

経済の問題は、つまり収入に応じて支出を切り詰めればいい。このためには家族の理解と協力が必要だ。それには固定的な経費を見直していく必要がある。そこでまず、隗より始めよというわけで、僕の希望で購読していた新聞を今月いっぱいでやめることにした。

新聞販売店の抵抗があると思ったが(実際にそういう知人もいた)、「コロナ禍で家計が立ちいかなくなって、やむなく止める。この新聞のファンで20年間、何の条件も付けずに自分から契約してきた。経済がもどれば、復活の希望もある。すんなりやめさせてほしい」という、当たらずといえども遠からずの話法を使ったら、わずか数日後の月末でやめることができた。

部屋の片づけもそうだが、積極的に家事も行うようになったので、家族の評判もよく、理解もえられそうだ。

身体(健康)の問題と経済(お金)の問題は、今まで生活の中で長い間、意図的に見ないようにして、目をそらしてきた領域だ。今回のことをきっかけに、そうした身近に放置された「ブラックボックス」をこじあけ、戦略的に関わっていきたいと思う。