大井川通信

大井川あたりの事ども

病室で考えたこと

病室で死に向き合った経験については書いているけれども、回復の兆しが見えたあと、今後の人生についてじっくり考えた内容については、まだ書いていなかった。それは、自分の今後の振舞いや生き方に関わってくることなので、具体的には書きづらいところがある。

また、自分なりに重い経験を背景にして考えたことだから、簡単に整理してしまったり、決意表明みたいにするのも気が進まない。しかし、書いておかないと風化してしまうというのも事実だろう。

こういう時、信頼できる友人というのはありがたい。彼に今回の闘病を説明するメールを書いたとき、自分の中で、意外なほど簡潔にまとめることができた。書いてみると、これ以下でもこれ以上でもない気がする。以下、その部分を引用してみる。

 

私の方は、もしかしたら聞かれているかもしれませんが、新型コロナ感染で一か月ばかり職場を休んでおりました。その経過はブログに書いておきましたので、興味がありましたらのぞいてみてください。重症化の一歩手前までいっていたようで、かなりつらく、またいろいろ考えさせられた経験でした。そこから得たものを、結論だけ書くと、こんなふうになります。

・極限状況での、自分の思考、精神について一定のメド(自信)を得たこと。

・回復のプロセスに入ってからは、自分の残された人生について十分に考える時間を持てたために、ある方向転換を決意できたこと。

・方向転換の内容はこんな感じです。

①従来家族を優先してきたけれども、これからは「自分のやりたいこと」をしたい。

➁助けてもらった生命だから、もっと直接に「人を助ける」仕事がしたい。

③組織やそこでの実績から離れて、一から「自分の力」を試してみたい。

 

仕事をめぐって

「仕事大全」ファイルを通して、新しく気づいたことがある。

僕は長い間、仕事は、生活のためにやむを得ず、仕方なくやっているものと思ってきた。だから表面的にはともかく、内心ではそこまで熱心でも一生懸命取り組んでいたわけではない。もちろんそんな気持ちでは、不器用なタイプの僕は、仕事上成果をだしたり評価されたりすることも少なかった。

それでもかまわなかったのは、自分の本領が仕事外の別のことにあると思っていたからだ。たとえば本を読んだり、考えたり、書いたり、勉強会や読書会をしたりすることである。

ところが組織で仕事をしていると、内心熱心であるか否かに関わらず、自分の全エネルギ-の内、八割とか九割を仕事のために割くことを強いられる。自分の本領と思う活動には、実際には一割も割けない。すると、時間が経てば経つほど、自分が本領と自負する部分が、実際にはそれに値しない「しょぼいもの」になっているのに気づかざるをえなくなる。これは、仕事外にアイデンティティを置いている人間にはつらい話だ。

そんな中で、そうした仕事外の活動は、(生存本能からか)仕事に背を向けるものではなく、次第に仕事を支援したり仕事に役だったりするように性格を変え、仕事と仕事外が融合した活動に自分のアイデンティティは移っていく。

しかし、「仕事大全」ファイルを作るまでは、自分のやってきた仕事自体に価値を見出すような気持ちはなかった。それはあくまで偶然とつぎはぎの産物にしか思えなかった。

ところが、このファイルで通覧すると、自分の職業人生に、ほとんど偶然によって「幸福な」つながりや一貫性が奇妙に成立していることに気づいたのだ。

僕が学生時代に最も大きな影響を受けたのは、地元の公民館活動と障害者の自立生活運動だった。前者は、後に通算7年間、社会教育施設で勤務することにつながったし、後者は、通算6年間、差別に関連する仕事をすることにつながった。

給料がいいからといういい加減な理由で最初に就職した保険会社での3年間の経験も、後年、公的な社会保険の仕事に1年間関わることで、多少モトを取れた気がする。保険会社のあと偶然勤めた塾講師の3年間の仕事は、20代の僕の青春の思い出といっていい楽しい記憶だ。ここでの経験は、以後長く教育行政の仕事を続けていく上でまちがいなく養分となった。

昔、経済学をかじった時、景気循環には短期の波から長期の波まであり、一番長いコンドラチェフの波は50年周期の景気循環(技術革新が要因らしい)であると習って驚いた記憶がある。人間の関わる事象にそんな長期の法則が成り立つものか、と。

しかし、人の職業人生においても、何かがつながり、何かがプラスに循環するには、ある程度長く生きて、長く働き続ける必要があるのかもしれない。

 

「仕事大全」ファイルを作る

今回の整理で、何よりもまず手をつけたかったのが、仕事関係の資料の整理だった。今年度定年退職を迎えるのだが、年金が出るわけでもなく何かの仕事を続けなければならない。あちこちに散らばって保存されている資料をまとめることで、いったい自分が仕事とどう関わってきたのか振り返り、これからの仕事についてのイメージを固めたかったのだ。

一番分厚い60ポケット(120頁)のクリアファイルを買ってきて、それを「仕事大全」と名付け、仕事の資料を精選して保存することにした。僕は今まで、転職、転勤で16の職場を経験している。一つの職場に3から4ポケットほど割り当て、さきにインデックスをつくり、あちこちのファイルや整理箱から出て来る書類やら名簿やら新聞記事やら手紙やら写真などを突っ込んでいく。資料が多い職場は、必要なものだけに精選して収める。資料が少ない職場は、このスペースで十分だった。

こうして整理の早い段階で、まず「仕事大全」ファイルがとりあえず完成する。60ポケットのクリアファイルが、パンパンに膨らんで1.2倍くらいの厚さとなる充実ぶりだ。少数の印象的な資料を通じて、僕の職業人生全体が一冊のファイルで通覧できるというのは、新鮮でうれしかった。

この成功体験がよかったかもしれない。他のジャンルでも「大全ファイル」を作るようにしたために、大量の書類や紙くずの整理が一気に進んだ。

 

老前整理を始める

コロナ療養でホテルに入る前、最低限これは残したくないと思いついたモノの処分をした。ホテルで気にかかって、長男に書き残したメモの大半も、自分のモノの保存や処分に関することだった。生命の危機に遭遇すると、自分と所有物との間には、ごく一時的な関係しかないことを実感できる。

この経験のためか、退院した翌日から、猛然と自分の持ち物の整理を始めた。薬の副作用で目がさえて眠れないときも、身の回りの整理に時間をあてた。この記事を書いているのは、7月2日だから、実に15日間も毎日片づけ続けていることになる。それで、ようやく一段落したくらい。一日、二日の思い付きで、どうにかしようとしてきたのが間違いだったのだ。

モノを捨てるのは大変なエネルギーがいる。「生前」ではなく「老前」なのは、老いによってそれが困難になる前にやってしまおうということらしい。人生のこれからがある「老前」なら、本当に必要なモノとの対話を通じて、新しい暮らしにつなげることもできる。

整理はモノを減らすことであり、整頓はモノを使いやすいように配置することだという人がいて、なるほどと思った。モノを減らさずに分類や置き場所ばかりを変えていても、整理は成功しない。今回の僕の老前整理がうまくいっているのは、本腰を入れて捨てることに努めているからだろう。まずは捨て、残ったものを整頓する。

もう一点。あきっぽい僕は、一つのジャンルの整理で行き詰まると、全く別のジャンルの整理に手を出して気分転換を図るようにしたのもよかったようだ。手をつけていないジャンルなら、片づけの「限界効用」が高いから、すぐに成果が目に見えて、やる気の維持にもつながる。

僕の場合、やはりいつも本でつまずいてしまうのだが、今回は、写真や手紙、仕事の書類、おもちゃや小物等の整理と組み合わせて進めることで、持ち物全体の整理へと広げることができている。

 

 

 

 

五月雨忌

先月、作家の忌日を調べる機会があったが、その時、五月雨忌というのが目についた。シンガーソングライターの村下孝蔵(1953-1999)の命日を、最大のヒット曲「初恋」(1983)の冒頭の歌詞「五月雨は緑色」に因んでそう名付けられたらしい。

純朴そうな人柄とルックスとともに、何より楽曲の良さと歌の実力とで、多くの人々から46歳という早世を惜しまれているのだろう。

僕は、「初恋」のヒットでメジャーになる前から、たまたま彼のことを知っていた。セカンドシングルの「春雨」(1981)を録音したテープを、姉が繰り返し聞いていたからだ。ラジオで流れた無名の新人の歌を気に入って、いい曲だと教えてもらったと思う。僕も気に入ったけれど、この新人、結局売れなかったとがっかりした記憶がある。当時の音楽文化では、ラジオとラジカセとカセットテープは必須だった。

だから、今でも僕にとって「春雨」は特別な曲で、彼のベスト盤を聞いても、独特な情緒を帯びた音色で聞こえる。

村下孝蔵の思い出はもう一つ。初めの入社した保険会社をやめて、九州から東京まで、車で帰った時のことだ。見たかった寺院建築を見ながら、車中泊やサウナに泊まったりして、ゆっくりと日本列島を縦断した。その時、繰り返し聞いたアルバムの一枚が、村下孝蔵だった。あとは佐野元春荒井由実、1987年当時はまだ、カセットテープが主流だったと思う。

今回のコロナ感染の後遺症のためかわからないが、僕は音楽が聴けなくなってしまった。味覚がなくなるという後遺症があるくらいだから、五感に関して影響があってもおかしくないだろう。実際に聞こえないわけではなく、その意欲、関心が失われたというだけだが。僕がもう一度、村下孝蔵を味わう日は来るだろうか。

 

 

 

 

九ちゃんとボンちゃん

猫たちにとっては、唯一のご主人様である妻がいなかった18日間は、ずいぶん様子がちがっていたそうだ。それでもその間、自宅にひとり残され、親たちの容態の急変に翻弄されていた長男にとっては、猫たちの存在はずいぶんと頼もしかったらしい。

特に、九太郎。我が家では、男気がある、不器用な男、というキャラクターになっている。産まれて一か月で、兄弟や仲間たちから引き離されて、我が家の一員としてのんびり暮らしてきた九太郎。今年からボンちゃんがやってきたために、精神に大混乱が生じてしまった。

攻撃する(うなる)。嫉妬する。すねる。先住猫なのに、隣りの部屋に「家出」する。やっていることは、もうすでにすっかり人間みたいだ。九ちゃんは頭がいい、猫でなくて人間、というキャラでもある。

生まれて半年で我が家にやってきたボンちゃん(リボンちゃん)は、猫の競争社会にもまれていて、社交性が身に着いている。そんなボンちゃんの気ままな振舞いが、九ちゃんには脅威に感じられるようだ。

九ちゃんのキャラは、天真爛漫。見た目は、生けるぬいぐるみ。九太郎の方が繊細さを兼ね備えた美形だけれども、スタイルや仕草のかわいらしさではボンちゃんには敵わない。

そんな猫たちの関係も、猫たちなりに我が家のコロナ禍を経験して、少し距離が縮まったような気がする。久しぶりに会った猫たちは、前よりもごく普通に一緒にいる場面が増えたようだ。妻によると、九太郎からとげとげしさが無くなり、前のような穏やかな猫に戻っているとのこと。

妻が、猫の絵が描かれたトレーを見せてくれる。以前のデパートの猫展(?)で買っておいたものだそうだ。花が咲き乱れた家の庭で、二匹の猫が遊んでいる。一匹は、九太郎によく似ているし、もう一匹もボンちゃんに見えないことはない。こんな暮らしがしてみたいと思って買ったという。

二年前に家の外構の改修をして、それ以来、玄関わきに作った小さな花壇に妻が花を絶やさなくなった。二匹の猫もやってきて、かつての妻の夢がかなったのだと気づく。

今さら後悔してもはじまらないが、妻には結婚以来、あまりいい思いはさせていない。猫たちに罪滅ぼしをしてもらってるのかな、と思う。

 

温泉三昧

病院ではあちこちに点滴をさされたが、点滴を入れにくい血管らしく、看護師さんたちもみな苦労していた。ひどいかゆみで皮膚をかきむしったりもしているから、僕の腕には小さな傷がたくさんある。

それで、温泉に入って、傷をいやそうと考えた。幸い地元には、源泉かけ流しのいい温泉がある。「湯治」なんて言葉が頭に浮かぶ。そうだ、湯治をやろう。

問題は、身体の表面の傷ではなく、コロナウィルスによる肺炎で傷つけられた肺や、大量にいろいろな薬を流し込まれた身体全体のコンディションだ。しかし、これは自然の治癒力、回復力にまかせるのみで、なすすべがない。

温泉というのは、どこまで正しいのかわからないが、いろいろな効能がうたわれているし、実際に湯治という習慣があるのだから、お祈りやまじないの類よりは実際的だろう。

それで、退院直後は、つとめて温泉に入った。たしかに気持ちがいいし、身体にもよさそうだ。しかし、三日坊主。仕事の疲れがたまり出すと、温泉に立ち寄る気がまったく起きなくなる。もっともこれは、自宅の持ち物の片づけをすることの優先順位が高くなったためでもある。

 

病院の窓を見上げる

入院中、窓の向うの風景が救いになったという話を書いた。一般病棟で自由に歩き回れるようになってからは、廊下の突き当りの窓から見下ろす交差点付近の街並みが、特に印象深い。病院を出たら、あのあたりを歩こうといつも思っていた。

というわけで、退院後、最初の日曜日の朝、病院近くまで車で乗りつけ、病院の周辺を歩くことにした。

窓という一点から見下ろす風景は、前後の遠近感を失い、ベタっとくっついて見えがちだ。しかし、実際の歩くと、街はずっとゆったりと風通しがよいし、眺望がさえぎられた部分にも、意外な細部が隠されている。

大きな瓦屋根が見えていたのは、浄土真宗のお寺だった。親鸞銅像に手をあわせる。かつてお城だったという丘にある境内はとても広く、駐車場にはバスケのコートもある。早朝で誰もいないのをいいことに、シュート練習を何本かする。思ったより体も動く。鐘楼で鐘に棒を少し当てると意外に大きく響き、あわててその場を去る。

廊下の突き当りのあの窓はすぐにわかったが、病院の周囲を歩きながら、反対側のコロナ病棟や自分のいた病室の窓に見当をつける。だいたいあのあたり、ということではなく、あの窓だ、という確信がもてないと落ち着かない。

まち歩きのあとで、地図で自分の経路を特定してみたくなるように、病棟での経験を建物の外側からの視線で透視し確定してみたくなったのだろう。いずれにしろ、我ながら変わった性癖だ。

あの時の僕のように薄水色の病院服を着て窓際に立つ人の姿は見かけても、同じ人間が外から同じ窓を見上げることはそうはないような気がする。

帰り、コメダ珈琲に寄って、モーニングを食べつつ読書。日常への帰還。

 

『ワニくんのレインコート』 みやざきひろかず 1989 

【オンラインビブリオバトル プレゼン原稿】  

皆さん、お元気ですか。僕は、運悪く一か月近く入院していて、先週ようやく退院したばかりのところです。一時は、相当悪くなって、半ばもうふだんの生活には戻れないという覚悟をしたくらいでした。ただ病気をしてみないと、なかなか日ごろの何気ない生活や健康のありがたさに気づくことができないな、とあらためて実感しました。

病院食を食べ続けていると、もっとギトギトしたものが欲しくなります。ある夜、テレビをつけていたら、バラエティー番組でスシローと王将の特番をやっていて、無性に食べたくなりました。ああ、食べたい、食べたい、と思って、退院したその日に、ムナカタのスシローに飛び込みました。いざ食べてみるともちろん美味しいのですが、「いつものスシロー」で、それ以上でもそれ以下でもありません。僕はあれほどあこがれていた気持ちを失って、がっかりしてしまいました。そして結局、王将には行きませんでした。

今日ご紹介する本の主人公ワニくんも、雨について、僕と同じような経験をしています。ワニくんは、こんな姿をしています。顔が長くて、足が大きいのですが、かわいいでしょ。絵本の主人公にワニがなることはあまりないと思いますが、この「みやざきひろかず」さんのワニくんは、30年書き継がれた人気シリーズ(約10作)となっています。実は、ビブリオバトルの連絡を受けたときは、まだ退院前だったのですが、「雨」というお題でこの本を思いついたので、申し込むことにしました。

タイトルは、「ワニくんのレインコート」。

ワニくん、レインコートをきていますね。ちなみに、ワニくんのふだんの姿は、こんのかんじです。

ワニくん、親からこの新しいレインコートを買ってもらいました。そうすると子供ですから、みなさんも経験があるでしょうが、雨の中を着て歩きたくてしようがない。ところが、何が起きるか。これは定番(おきまり)ですが、いつまでも雨が降らないわけです。天気予報で雨の降りそうな地方や山に出かけても、そこも晴天ばかり。

ワニクン雨へのあこがれは強くなる一方です。そしてその憧れが頂点に達した時に、とうとう待ちに待った雨がやってきます。

ワニくんは、どんなに喜んだことでしょう。その時の、喜びのワニくんの姿をおみせします。ところが、喜びは長くは続きません。雨はやがてやんでしまいます。さて、その時、ワニくんは、どんな風に考えるか。

僕は、スシローを食べて、スシローへの憧れの気持ちを失って、がっかりしてしまったのですが、ワニくんには、そんなことはありません。

だれもが憧れの気持ちをもつと思います。しかし、肝心なのは、その憧れが満たされたあとのことだと思います。

あこがれが満たされたあとに、いったいどういうふうに振るまったら、より楽しく生きられるのか、その答えが、この絵本の最後のページに、見事に美しく描かれています。

どうか皆さん、この絵本を実際に手に取って、その最後のページ(コマ)を体験してみてください。

作者のみやざきひろかずさんは、やさしい絵柄とストーリーですが、とくに人間の夢や憧れをテーマにすると、どんな哲学者の思索よりも深く繊細な作品を描く人です。大傑作である『チョコレートを食べた魚』も読み継がれています。ぜひ、この作者にも注目してください。

食べ放題で食べすぎる/読書会で言いすぎる

今回のコロナ騒動では、我が家では4人中3人が感染・発症し、ホテルに隔離されて、親二人が緊急入院するというダメージを受けた。

自宅では、濃厚接触者の長男と猫2匹の生活が1週間続いたあと、次の1週間は次男が戻り、次は妻、最後に僕と、毎週帰還者が加わった。人間関係の組み合わせも、コロナの病状も猫の目のように変わる、激動の1か月だった。

ありふれた言い方だが、危機的な状況におけるコミュニケーションを体験し、家族のきずなは相当強くなったのではないだろうか。

全員の快気祝いで、和食バイキングに出かけることになった。この時、長男と次男とで、僕がお腹をこわすかどうか、賭けをしたらしい。長男はこわさない方に賭け、次男はこわす方に賭けたそうだが、その時の次男の着眼点が面白かったと長男がおしえてくれた。次男はこんなふうに言ったそうだ。

だってお父さんは、食べ放題ではいつも食べすぎたと後悔しているし、読書会ではいつも言いすぎたと後悔しているじゃないか。

ぐうの音もでない。この2点こそ僕という人間の弱点を見事に抉り出していると思わざるをえない。自分ではあまり認めたくはないが、あえて言えば、食い意地と目立ちたがりという原始的な欲望に振りまわされている、という状態だろうか。

とにかく、この数年の話ではない。小さいころから父親を身近に観察しつづけた次男の慧眼、恐るべしである。

バイキングは体調管理を考えて、ずいぶん遠慮したつもりだけど、やっぱり食べ過ぎて、お腹をこわしてしまいました。よって、次男の勝ち。