大井川通信

大井川あたりの事ども

家族の星座

二年ぶりに東京から姉があそびにきた。姉には両親の世話を最期までしてもらったから、頭があがらない。

姉のことを人に紹介するときに、手っ取り早いエピソードは、例のあの宗教団体に関連したことだ。姉は、短大卒業後、某損害保険会社に就職した。結局、定年まで吸収合併を経ながら、同じ会社を全うすることになるのだが、これはその初期の話。

同じフロアのOLの友人から、近ごろ青山にいいヨガの先生がいるという話を聞いた。やがてその友人は会社を辞めてしまい、ヨガ教師だった麻原の弟子となって、驚いたことには教団の幹部となった。教団ナンバー2の石井ヒサコと言えば、当時のマスコミ報道に接した人ならきっと覚えているだろう。

亡くなった父親についてはどうだろうか。おそらく戦争前、まだ10代の頃の話だと思うが、文学青年だった父親は、寄席に行くのも好きで、落語の名人文楽のところに弟子入りの志願をしたのだそうだ。なだめられて体よく断られたそうだが、父親の話好きは、そんなところから来ているのだろう。

母親は亡くなる数年前、オレオレ詐欺にひっかかっている。耳も少し遠くなっていた頃で、遠方でくらす息子を心配する気持ちを利用されて、プロの詐欺師にだまされたのだ。母親も悔しかっただろうし、ひどい話だと思うが、息子として「元をとる」つもりで、ある時期から積極的に話題にするようになった。地元の敬老会で、防犯を呼び掛ける実例として話したり。

僕はどうだろうか。やはり、昨年のコロナ禍で死線をさまよったという経験だろうか。これを超えるエピソードは、今後の僕にありそうもない。

ベンヤミンが「根源」と呼ぶような歴史上の磁力のあるエピソードは、一般的なコトバで言いかえると、「ネタ」ということになると思う。歴史的な出来事を背景として、その人となりが一瞬で浮かび上がるような特別なエピソードがそれである。

姉で言えば1980年代のオウム事件前夜、父親でいえば1940年代の寄席と文楽、母親で言えば2010年代の世相、僕で言えば2020年代初頭のコロナ禍が、それぞれのネタの歴史的背景だ。これらのまったく別個なネタが、高度成長期に東京郊外に成立した平凡な家族のメンバーの間に成立している。またしてもベンヤミン用語をつかえば、このネタを結びつけて出来上がる形が家族の「星座」なのだろう。

 

丘陵を歩き続ける柄谷行人

新聞購読をやめてしまったけれども、気になる記事はある。たとえば、年末恒例の書評委員による1年間の出版の総まとめみたいな記事。昨年柄谷行人が面白いことを書いていたから、今年の彼の発言がなんとなく気になっていた。

今年の「書評委員この1年」というコラムの中の柄谷のコメントはこうだ。「去年と同様、毎日、家で同じ論文に取り組み、人にも会わず、近所の多摩丘陵を歩きまわる日々をすごした」

平凡な近況報告と思うなかれ。柄谷が、昨年に引き続き、丘陵歩きのこと(だけ)に触れているのは、そこに批評的意図があるはずなのだ。そこに思想的で発見的な何事かがあるからこそ、彼はモノに憑かれたように近所の丘陵を歩き続けているのだろう。

僕は若いころ、柄谷の書くものにずいぶん啓発され励まされた。今は、彼の歩く姿勢に励まされている。

 

ooigawa1212.hatenablog.com

 

舞台と映画

ベンヤミンのアンソロジーを読んでいて、有名な「複製技術時代の芸術作品」を再読した。以前読んだときは、そこまで強い印象は受けなかったが、今の僕にはとてもいい。マルクス的な階級闘争史観を骨格にさまざまな視点とアイデアがギュッと詰め込まれていて、カオスのような魅力をもっているが、細部における切り口に魅了される。

これを読むと、ベンヤミンが日本の同時代の批評家たちとははっきり違った能力をもっていたことが実感できる。以前それは、超越的な理念の世界への突き抜けた感受性だと思っていたが、それとともに、あたらしい技術を追尾し、それを思索の網の目にとらえる粘着力があるといっていい。

ここでは演劇と映画の違い、それぞれの俳優のあり方の違いについての考察の部分を取り上げてみたい。

演劇では、俳優も舞台装置も、舞台上でひとまとまりの独立して一貫した在り方を保障されているところがある。俳優は、役柄に同一化して演じ切ることができる。一方、映画の撮影では、俳優の演技は分割されるし、映画の世界の映像も断片化されたものが、編集過程で組み合わせられることで、一貫した世界が結果としてスクリーン上に現れる。

別の視点からいえば、舞台俳優が演じるのは、目の前の観客というひとまとまりの存在であるのに対して、映画俳優が演じるのは、カメラ等の機械装置に対してである。編集過程を通じて作りあげられた映画作品を観るのは、別々の場所に散らばる映画館の観衆だ。ここでは、演じる側だけではなく、観る側も分割されている。

ベンヤミンは技術の進歩による機械の介入とそれによる人間的現実の分割と編集というプロセスの中に、悲劇とともに新たな可能性を見出そうとする。しかし、そういう射程の大きな話はともかくとして、映画と舞台とのちがいについての発見とねちっこい考察こそが面白い。

 

 

猫のけんか

職場の窓から見える林には、ときどき近所の猫たちの散歩する姿が見える。いろいろな柄がいるし、大きいのも小さいのもいる。

今日突然、大きなうなり声が聞こえたので、窓の外をのぞくと、二匹の猫が向かいあっている。鳴いているのは茶トラの猫で、相手の白猫は声をださない。

初めはなぜか横を向いてうなっていた猫も、まっすぐ顔を向けて、だんだん顔を近づけると、鼻と鼻がくっつくくらいになった。窓を閉めた室内にまで聞こえる声だから、かなりの迫力なのだろうが、白猫は意に介さないという風情で相手を見すえている。

この状態が10分以上続いただろうか、よく見るとうなり声をあげている猫がわずかでも相手につめよって、白猫があとずさりはしないまでも身体を曲げて耐えているのがわかる。チンピラの「ガンの飛ばしあい」みたいなもので、ひくにひけないメンツみたいなものがあるようだ。(ちなみに、「ガンを飛ばす」のは関東で、関西では「メンチを切る」と言うようだ)

そんななか突然お互いとびかかったが、一瞬組み合っただけですぐに分かれて、また同ようなにらみあいにもどってしまった。5分くらいたって、白猫がゆっくりと向きを変えて、振り返らずに歩いていってしまう。それを見送る茶トラ。白猫の姿が完全に消えると、茶トラも歩き出した。

形の上では白猫が譲ったみたいだが、茶トラにあれだけうならせて一歩も引かなかったのだから、ずっと見守っていた審判役からすると、引き分けとしたい。かえって白猫の精神力の方が目立っていた気がするし、猫の世界のルールの上で、白猫の方にも納得のいく成果があったから、悠然と退場していったようにも思える。

いずれにしろすごい迫力だった。茶トラには首輪があったので飼い猫ではあるようだが、修羅場を生きる外猫は強い。

我が家の九太郎は、いまだに後からきたボンちゃんが気に入らないらしく、ちいさくうなることがあるが、まったくかわいいものだ。とはいえ、家猫の中にもああいった激しい野生の本性は潜んでいるのだろう。それをわかって接してあげないといけないと思った。

 

 

 

 

 

こんな夢をみた(悪鬼のような友人に追われる)

友人の家に遊びに行き、部屋で本を読んでいると、いつのまにか友人が近くに立って恐ろしい形相で見下ろしている。なんとか彼の手をすり抜けて部屋の外に逃れると、夜なのにどの部屋も明かりが消してあるので、手あたりしだい電灯をつけて回る。

そこにたまたま来客があってきたので、友人がはしゃいだ様子で相手をしはじめたから、そのすきに家をでて夜の道を急いだ。

振り返ると、電灯に照らされて、足を引きずりながら追いかけてくる友人のシルエットが見える。

途中、明るい居酒屋のような店があったので、あわてて駆け込んだ。席について、料理を注文したのだが、店のガラス窓に恐ろしい友人の姿が現れるのではないかと気が気でなかった。

※これが今年の初夢だというのはどんなものか。

 

 

気を取り直してヒラトモ様・ミロク様に初詣する

腰痛も峠をこしたようで、朝暗いうちに起き出して宗像大社に詣でる。まだ車も人もそこまで多くない。コロナ禍以降境内から締め出された夜店の数は少なく、かつて調査した東京ケーキの屋台も来ていない。次男が特等を当てたこともある新春の福みくじを二本引くが、二桁等級に沈む。

ジョイフルに寄って、本を読んだり計画を立てたりするが、お参りのせいか昨日までよりかなり快調だ。そうだ、今日を元日と思って、やりたいことを詰め込もう。家に戻って準備してから、杖をついて大井に出ていく。

切り株の目立つ和歌神社を参拝し、先日嫌ごとを言ってしまった自治会長さんにも元気に新年のあいさつ。里山の入り口の民家で掃除するご婦人に声をかけると、「トノミネ様にお参りですか」と。地元ではトノミネ説もかなり有力(ひろちゃんもそう呼んでいた)で、ヒラトモ様研究には大切な事実だからメモしておこう。

山頂に着くと、まずはヒラトモ様のホコラの掃除。軍手で落ち葉を払い、お神酒を替え、お供えの木の根を並べ直す。この後は新春のお祭りだ。まずは、ヒラトモ様の由来を説いた紙芝居を、ホコラに向けて上演する。そのあとは、平家物語の知盛の最期を読み上げる。最後は、ベンヤミンの歴史哲学テーゼのいくつかを朗読する。

今月のベンヤミン読書会にむけての予行演習の意味もあるが、和洋、硬軟とりまぜたからヒラトモ様もきっと退屈しなかっただろう。

帰りは里山の中腹を回って、大正4年「御大典記念林」の石碑あたりから峰にそってくだっていく。この急坂はシダに占拠されて歩きにくく、二度も尻もちをついてしまった。ミロク様もすっかり草木に埋もれている。お神酒を替えてお祈りしながら、もう今後お参りできなくなるかもしれないことの断りをいれる。ミロク様の記録を残し記憶をつなぐことの決意をあらたにする。峰をおりた辺りにある山中の滝には、水はほとんどながれていなかった。

ようやく下山すると、集落の家々には見かけない車が止まり、子どもたちの姿も見えて活気がある。正月の帰省なのだろう。こちらもあたたかい気持ちになる。

 

 

手作り絵本「かさぼとけさま」あとがき

駅に近い田んぼの一角に、石材を無造作に寄せてコンクリートで固めた場所があって、以前から気になっていました。よくみると、六面に地蔵のようなものが彫られた石の塔身が二つあって、かたわらには大きな丸い石がたてかけてあります。いわゆる六角地蔵といわれるものですが、かなり古くて傷んでおり、地蔵の姿もうっすら残っているだけです。

あとから、ここの古い小字名が「笠仏」であることを知ったとき、この石仏がその由来ではないかと思い付きましたが、それではあまりにあっけないし、仏様の扱いも無残です。

その後,八並川沿いを散歩しているとき、犬を連れた年配のご婦人に声をかけたら、なんとあの石のある田んぼの持ち主で、それにまつわる話を教えてくださいました。

昔この場所に雷が落ちて、雨宿りをしていた人と馬が亡くなった。その供養でまつられた仏様だそうです。雨ごいのお祭りのときだけ、この仏様に石の笠をかぶせていたが、ふだんは今と同じように笠をおろしていたとのこと。昭和8年生まれの彼女が二十歳の頃にお嫁に来た時には、もうおこもり(お祭り)をすることはなかったが、お酒は供えていたそうです。

10年ほど前に、田んぼの前の道を拡張したとき、離れて二つあった笠仏様を今のように寄せて、みんなでその時最後のおこもりをした。笠の石は子どもがいたずらして危なかったので、コンクリートで固定したそうです。

一見乱暴に寄せ集めただけのように見えますが、地元の人たちはそれなりに礼を尽くしていたことがわかりました。ただし、庚申塔のように見える自然石いくつかと一緒に固められた様子からは、神仏への敬意が感じとることは難しい。そのために今では、清掃やお供えをする人も絶えているのでしょう。神様仏様だって、恨み言の一つもいいたくなるのではないでしょうか。

お話しの最後の場面が、そこまでの童話風の絵とギャップのある恐い絵になってしまったのは、そんな実際の様子を写したためでもあるのです。

なお、市史にも、笠仏の儀式のことが一行だけ触れられています。大きな水源がなく、ため池の多い地域ですから、市内各地に雨ごいの風習があったとも書かれています。

 

一年の計は元旦にありというけれど

年末からようやく部屋の片づけを始めて、大晦日は、コメダ珈琲に行った以外家を出なかった。大晦日のテレビ番組も一分もみなかったと思う。ただしリビングでゴロゴロしている時間はながく、いつのまにか腰を痛めていた。

そんなわけで新年早々、腰にサポーターをきつく巻いて何とか起きだしている。大井川のあたりを少し歩いたが、カワウとカワセミアオサギイソシギに驚かれたくらいで、大事をとってどこにもお参りをせずに帰ってくる。

吉田アツコさんからのメールによると、僕のブログの読者で、さっそうとヒラトモ様に初詣に行く人に出会ったそうだ。僕の方はちょっと情けないが、仕方ない。

家族四人がそろい、勤務先の義理で申し込んでいたおせち料理を食べる。思いの外美味しく、来年もここにしようなどと話をする。帰省中の長男は、次男といっしょに元旦から開いている温泉にいく。親など遅かれ早かれ逝くのだから、兄弟が仲がいいのが一番だ。

僕はせめて部屋の片づけとブログ書きに精を出す。途中気分転換でジョイフルに出かけるが、読書にまるで集中できない。スーパーで買い物をして帰ってくる。

あれだけ遅れていたブログが追いついたことだけでも、良しとしよう。

 

勉強会3周年と転校生の話

友人の吉田さんと3年前の12月に始めた勉強会が丸三年を迎えた。コロナ禍の入院でやむなく開けなかった2回をのぞいては皆勤で、今回が35回目にあたる。

僕は例の通り、ブログから三本の記事をまとめて「馬と機関車」と題して話をする。吉田さんは、仕事がらみで調べた津屋崎とその村社の歴史についてのレポートを解説する。村社の境内に集められた小社や石碑については、僕も地元の大井で調べたことがあるので、次回そのことを報告しようと考える。

いつものように、知人の噂話や生活上のあれこれの愚痴めいた話もするわけだが、たまたま子ども時代の転校生の話になったのが、面白かった。

別府の古い温泉街に生まれ育った吉田さんによると、おそらく親が職をもとめて各地からきた転校生がいたのだが、土地柄、どこからどうしてやってきたなどという詮索はしなかったという。吉田さんは旧遊郭の建物に住んでいたのだが、近所のおばさん同士、本名ではなく源氏名みたいな通称で呼び合ったりしていたため、友達のお母さんの本名が名簿で見てまったく違うのに驚いたことがあったという。虚実が入り混じって、あえて実の部分を取り出したりする野暮のない世界だったのだろう。

一方、僕は、東京郊外の人工的な住宅街で生まれ育ち、一戸建ての住宅の他は、「社宅」がとにかく多かった。少し離れたところには大規模の公団住宅があり、密集した路地が走る都営住宅もあったが、中規模以下の真新しい鉄筋コンクリートの集合住宅は、まちがいなく社宅だった。当時は、民間の賃貸住宅がまだ少なく、終身雇用の大企業にとって人材確保の観点からも社員向けの住宅を確保する必要があったのだ。

ブリジストン朝日生命、住友火災海上といった大企業の看板を掲げた社宅が近所にあって、転校生というとたいていそういう社宅の転勤族の子どもたちだった。転校生たちは、家の経済状況も学力もむしろ地元の子どもたちより高かったような気がする。

今では、吉田さんの故郷の別府浜脇も当時の温泉街は区画整理で消えてしまったという。僕の育った東京国立もすでに社宅は姿を消し、ほとんどは民間のマンションに建て替えられている。観光地も近代化し、大企業もかつての日本的雇用を改めたのだ。

僕たちの思い出の「転校生」も歴史の彼方に姿を消してしまったのか。

 

高良留美子の詩

今年も多くの著名の人が亡くなった。記事にしたいと思いながら、書けなかった人も多い。つい先日、新聞で詩人の高良留美子(1932-2021)の訃報に接した。高良留美子は、大学時代、詩をよく読んでいたときに愛読していた詩人の一人だ。現代詩文庫の解説で岡庭昇が評価していたことに影響されたのかもしれない。

かつての詩人らしく詩論集なども書いていて古書店の書棚でよく見かけた。息長く活動した詩人だが、後年その仕事に触れることはなかった。

ただ彼女が実際に亡くなったのが12月12日で僕の誕生日であったのが、何かの縁のように思えて詩集を手に取ってみた。

数年前、詩論を読書会でレポートしたとき、独自に調査してみて、すぐれた詩集でも自分にピンとくる詩は3割くらいしかない、ということに気づいた。残り七割の不可解なコトバの堆積を潜り抜ける労力が、詩から人を遠ざける。これがその時の結論だった。

その後、詩歌の読書会にめぐりあって、強制的に詩歌を読む場所に恵まれているが、そういう枷がなければ、詩を読み通すことがいかに困難かを、今回再度味わうことになった。

ところどころ、印象に残っている詩句や語法、短い詩などはあるが、長い詩や散文詩など多くはピンとくるものがない。60歳を過ぎて自分の重点をいくつかの分野にしぼりこみたいと思って絵本や童話に取り組んでいるが、それなりに読んできた詩歌については、自分にはちょっと無理ではないかと弱気になってしまうような読書体験になった。

気を取り直して、一篇、引用する。適度にエッジが効いて飛躍をはらんだ詩句の連なりが心地よい。具体と抽象との配合具合も。

 

宇宙はいま 秋だ。/死のうとした少女が/家からの独立とひきかえに 立ち直り/海のむこうから来たひとが/きみ自身より明確にきみの孤立をかたる。/黄ばみかけた木蓮の下葉が陽を透かし/走ってくるバスの灯から/ふいに「永遠」が姿をあらわす/世界が急速に小さくなり/遠い砂漠のくにに住む人びとが/真近かに感じられるのも/そうした秋の一日のことだ。/きみはふと 尻尾の方からすき透ってくるのを感じて/急いで椅子から立ち上がるだろう/そのとき きみの短い休暇は終わり/きみはすでに 新しい行為のなかにはいっているのだ。  (「秋」)