大井川通信

大井川あたりの事ども

手帳を使い切る

僕は学生時代から手帳を使い始めて、結局還暦の今年まで、年末に選んだ手帳を翌年一年間使うということを続けてきた。すべての手帳は保管されていると思う。

若いころはうまく使えず空白ばかりのことも多かった。仕事のことはカレンダーなど手元のメモですませたり、プライベートな記録は別に日記をつけたりしていたからだ。

中年すぎてようやく手帳を上手く使いこなすことができるようになった。それと共に判型は書き込みが多くできるB6サイズとなったが、ここ二年は視力の関係でさらに大きなA5サイズに変更した。もはや手帳よりもノートと呼ぶべきかもしれない。

今年は特に自分なりの手帳活用の集大成といっていい使い方だった。これはもう5年以上続けている方法だが、公私とも自分の全情報を書き込むということで、仕事は黒ペン、プライベートは青ペン、日記的な振り返りは赤ペンで記入する。アイデアや今後の計画なども、余白やメモ頁を活用して書き込んでいく。特に今年は、自分の精神活動を含む全活動と並走することができた。

今年はコロナ禍の家族ぐるみの感染体験や、定年目前の仕事のまとめや次にむけての諸活動やらがあって、手帳に書き込まれた内容も盛りだくさんとなった。中には、隔離療養施設(ホテル)で書いた「遺書」めいた頁までがある。

それと今年が例年と違うことがもう一つ。例年は、12月後半から少しずつ新しい手帳にシフトしていって、年末の休みになると完全に記録は次の手帳に移っていた。仕事の区切りが新年でなく、新年度である以上、普通に翌月の予定とかを書きこむ必要性がでてくるためだ。(これを考えると、4月始りの手帳が使いやすいはずだが、やはり小学生日記依頼の1月始りにこだわってしまう)

しかし、今年は12月の最後までていねいに今年の手帳を使い続けている。あんまりしっかり使いこなした手帳だから、最後に余白を残したくない、という愛着があるかもしれない。

 

『誰か故郷を想はざる』 寺山修司 1973

角川文庫版。表題作の初版は1968年に出版されている。

寺山修司(1935-1983)のエッセイを好んで読んだ時期があって、今回ベンヤミンの批評を読んでいるときに、不意に寺山修司を思い出した。それまでベンヤミン寺山修司をつなげて考えたことなどなかったのに。

自分の幼少期からの人生のシーンに焦点をあてたこのエッセイを読むと、ベンヤミンとの共通点をいっそう強く感じることができる。具体的な場面の切り取り方の鮮やかさと、それにぶつけられるイメージ豊かな思弁。

寺山の場合は、人生の回想にも虚構を自覚的に駆使しているし、歌謡曲や自作の詩歌などさまざまな引用がそれに付け加わるから、言葉は乱反射し、イメージはいっそう焦点を結びづらく、煙に巻かれてるような気分にもなる。

しかし、寺山の文章には、人生の断片や破片からはるかな解放の契機を受け取るようなベンヤミン的な犀利な誠実さがあるのは間違いない。

「現実に家出するだけではなく、抒情詩のなかからも家出して、この二つの世界を飽くなく往復運動を繰り返してゆく思想的遊牧民になること」

「私の上京してからの最大の学問的な感激は、東京一周のはとバスであった・・自分たちが啓蒙されつつある現実を走り抜けてゆく、という快感があった」

「馬券とは、いわば彼の幻想のレースの思い出である」

ただし、彼の競馬論の神髄を理解するには、僕はまだ素人すぎるだろう。

 

 

ノルアドレナリンとアセチルコリン

登録販売者の試験勉強では、人体の構造や働きの分野も出題範囲になる。あらためて、身体の内部については、これだけ身近なものであるにもかかわらずごく初歩的な知識すらないことを痛感する。人間にかかわること全般にはそれなりに知識や思索を積み重ねてきたことを考えると、明らかにバランスを欠いている。

薬についても、医薬品の販売名ごとにそれぞれ別の単一な薬効があるくらいに思っていた。風邪ならパブロンを愛用していて、それが一番効くみたいに思っていた。薬の働きについても、細菌などを殺すものだろうというイメージくらいしかなかった。

神経系には、中枢神経系(脳、延髄、脊髄)と末梢神経系(体性神経系と自律神経系)とがあり、無意識に働く身体の機能を担っている自律神経系には交感神経系と副交感神経系とがあると言われれば、なんとなくそうだった気もする。

交感神経系が「闘争や恐怖」の緊張状態に対応し、副交感神経系が「食事や休憩」の安息状態に対応するというのは、全くの初耳だが、面白いし覚えやすい。だから、前者が活発になるときは、瞳孔が大きくなり、心拍数が上昇し、気管は拡大し、排尿が抑制される。一方、後者が活発になると、瞳孔が収縮し、血圧が下がり、胃液が出て、排尿が促進される。

交感神経系の効果器への神経伝達物質ノルアドレナリン。副交感神経系の伝達物質はアセチルコリン。医薬品の勉強をすると、交感神経系の働きを増すためのアドレナリン作動成分と、副交感神経系の働きを抑える抗コリン成分というものが頻出する。

これなど基本の基本なのだろうが、医薬品が、人体の精妙な働きを微妙にコントロールすることで、身体に効果をもたらそうとするものであることを了解できた。

有馬記念とBAND-MAID

いよいよ有馬記念。といっても、たった一か月の競馬観戦歴しかないのだが。

初めてファンになったグランアレグリアが5歳牝馬だったので、同期の牝馬クロノジェネシスを応援する。一番人気は、3歳牡馬で日の出の勢いのエフフォーリアだが、自分がこの年齢になると、やはりベテラン勢に意地をみせてもらいたいと思う。

テレビ画面の前で息をつめて応援したが、クロノジェネシスは3着に破れ、評判通りエフフォーリアの勝利となった。同期の牝馬グランやラヴズオンリーユーのようには引退レースを勝利で飾ることはできなかった。無念。ただしレース後引退式を行うクロノが、弱い負け方をしなくて良かったと思う。

昨日はクリスマスで、ロックバンドBAND-MAIDの配信ライブがあった。コロナ以降は生活が一変したこともあって、以前ほど熱心に彼女らの曲を聞かなくなった。配信ライブも毎回のように観てきて、少し飽きてしまったところもある。

気持ちがのらずに時間ぎりぎりに申込をして、少し遅れて視聴しはじめたが、その内容に驚いた。今回はアコースティックライブのために、いつものメイドのユニフォームではなく自然な私服で、楽曲のアレンジもすべて新しかった。このため、彼女たちの作曲能力や表現力、演奏技術の高さをストレートに受け取ることができた。チームワークと人柄の良さは相変わらず。

僕は音楽のことは詳しくわからないけれど、今回のライブは表現として嫉妬してしまうほど素晴らしいものに思えた。アーカイブが視聴できる今週中は繰り返す聴くことになるだろう。

 

 

 

 

 

クリスマスの大井川周辺

年末の休日で、寒い中大井川周辺を歩く。気分がのったら、クロスミ様かヒラトモ様にお参りしようと思いつつ。秀円寺の脇を降りていくと、お寺の境内の杉の切り株と、鎮守の杜の無残に切られた大木の幹が目に入って、気が滅入る。

近くで農作業しているご婦人に、つい愚痴をこぼしてしまう。昔の人が生きていたら、きっとこんなことは許しませんよ。マスク越しでは同意してくれているのか表情はわからない。どうぞお参りをしてください、となだめられる。

鳥居の前で黙礼して、境内には入らずに通り過ぎる。村チャコによると、原田さんが米びつをつくろうと作業していたので、ギャラリーに誘われて少し話をする。数か月ぶりだけれども、ピタリと焦点の定まった話ができた。

原田さんはどんな時も、地道なモノづくりの作業をやめない。原田さんの思想の安定と深化を支えているのはこの手仕事の継続だろうと気づく。

外にでると風はさらに冷たくなっている。遠出はしたくないが、近場で訪ねたいところがあって、田んぼのあぜみちをまっすぐ歩く。昨年の今頃に、生まれてはじめて見つけてモズのはやにえが今年もあるのか、確かめたかったのだ。

目当ての有刺鉄線には、干からびた小さなカエルが三匹刺さっている。もう少し早い時期から観察したかったが、この秋はとてもその余裕がなかったのだ。

不意に真上の木の梢から、猛禽類が飛び出して、田んぼを滑空していく。時々ひらひらと翼をばたつかせているから、おそらくハイタカだろう。

 

冬の霊山

通勤の途中で景色が開けた時、県境に近い英彦山の特徴あるシルエットを遠望することができる。大きく盛り上がった山塊の左隣に岩山の突起が三つ並んでいて、一目見て異様な姿に目を奪われる。さすが古くから修験の山とされているだけのことはある。(ただし、僕の住む大井と関係が深い修験の山は、県内のもう一つの霊山宝満山だ)

山頂近くまで車道が伸びていて、この夏には同僚の初盆参りで出かけたが大雨でじっくり景観を楽しむ余裕はなかった。今回、山上にある自然体験施設に勤務する知人から招かれて、冬晴れの底冷えする日に車で登山することになった。

山に入ると植林の針葉樹林が続くが、地形のもつ力や存在感のレベルが、僕の住む平地近くの山とは明らかに異なっている。施設には雪が残っていて、ぶるぶる震えながら、野外調理の焼き芋やシイタケをほおばった。そのあと15分ばかり山林を歩いて、社殿の裏に大岩のそびえる高住神社を参詣する。僕は例のごとくカラスの見分け方などを、得意げに施設の職員に解説してしまった。

施設の二階のベランダからは、岩肌を見せる鷹ノ巣山を真横から見ることができた。遠くからでも目立つ突起状のあの岩山である。大げさに言えば、アルプスの山容を連想させる迫力があった。後で調べると、ビュートと呼ばれる地形で、「差別浸食によって形成された孤立丘」がその意味だそうだ。

ふだん遠くから見ているものを間近に見ることの眩暈と感動というものがある。

 

 

セミヤドリガ その4 -フィクションの試みとして

わたしは、夢の中で、少年の好奇心や幼い推理を楽しんでいた。少年の夏休みの自由研究というもの完成を応援したくなった。わたしはもちろん、ヒグラシやセミヤドリガといった生き物を実際に見たことはない。しかし、夢の中では、林の少し湿った空気や樹皮の匂いをありありと感じていたし、小さな昆虫たちも手を伸ばせばつかめそうなほど間近く存在していた。

わたしの考えはこうだ。

少年が林の中を歩いているとき、多くのヒグラシは、木の幹の低い部分、場合によっては根元付近から飛び立っていた。他のセミなら、もっと木の高いところにとまるだろう。ヒグラシが何らかの理由で、木の幹の特定の部分を好むとしたなら、そこに卵を産み付けることで、幼虫がヒグラシに寄生する確率も高まるに違いない。また、ヒグラシが臆病で、他の生き物の気配で、すぐに場所を移動する習性があるとするなら、いっそう卵の近くに腹を擦り付けてくる可能性が高くなるはずである。

何光年も離れているはずの宇宙船のなかで、わたしはどうやら結論らしきものにたどりついたのだが、残念ながらそれを少年に伝えることができない。

そもそも狭い宇宙船のキャビンに閉じ込められたわたしが、何光年も離れた遠い惑星に住む少年の日常を夢として体験しているのは、いったいどういう現象によるものだろうか。あるいは、記憶を失うまえの私の過去を、いま少しずつ思いだしているとでもいうのだろうか。いくら考えてもわかるはずはなかった。ただ、わたしの見る夢が異様に鮮明になるにしたがって、私が宇宙船を降りる時期が近づいてくるのを予感しないではいられなかった。

そうして、いよいよ、下船の時がやってきた。

宇宙船は、巨大な崖に接岸し、四本の足でしっかりと固定された、そこから長いワイヤーを伸ばすようにして、キャビンがはずれ、深淵のように口を開いた宇宙の谷底へと、ゆっくりと下降していった。

わたしのキャビンは、闇の中に白く輝く繭のような姿で、どこまでも沈んでいく。

 

早朝、僕が林の中に足を踏み入れると、一本のヒノキの前で、銀の糸が宙から垂れ下がっていることに気が付いた。見上げると、銀の糸は、ヒノキの樹上の遠い暗がりから、ゆるやかなカーブを描いて伸びてきていて、足元の草の葉に絡み付いている。目の前の高さ2メートルばかりのところには、糸を伝って、純白の綿菓子のようなセミヤドリガの幼虫が、風に揺れながら少しずつ降りてくる姿があった。

5齢虫の離脱……

幼虫は、やがて地面に達すると、さなぎとなり、成虫の蛾となって、宿主にうまく出会えるように木の幹に卵を産み付けるのだろう。

僕は自由研究のことはすっかり忘れて、この奇跡のように美しい場面をしっかりと目に焼き付けた。

 

セミヤドリガ その3 -フィクションの試みとして

そんなある日、僕は、あるヒグラシが、胴体によく目立つ大きな白い綿菓子のようなものをつけて飛んでいるのに気づいた。翌日には、同じような白い綿菓子をいくつもつけたまま、幹につかまっているヒグラシを見かけることができた。それは明らかに寄生虫に犯された末期の姿に見えて、僕にはとても可哀想に思えたものだった。

しかし、図書館の専門書で調べると、僕の直感はまたしても方向違いであることがわかった。たしかにそれは、寄生虫の幼虫だけれども、寄生したセミを殺すことなく、共生しているというのである。

 

セミヤドリガ(蝉寄生蛾)鱗翅目 セミヤドリガ科

 日中でもやや暗いような、年を経たスギ・ヒノキの植林内で幼虫がヒグラシのメスに寄生しているのが多く見られる。幼虫は5齢まであり、スマートな1齢幼虫に対して、それ以降の幼虫は太っている。5齢幼虫になると、純白の蝋状物質でできた白色の綿毛で背面が被われるようになり、非常に目立つ。二週間あまりで、セミの体液から一生分の栄養を摂る。5齢幼虫は機をうかがってセミの腹部から糸を吐きながら脱落し、宙に揺れるにまかせて繭作りの場所を探す。

 羽化した成虫は繭の上やすぐそばにとまって羽が伸びきるのを待つ。確認される成虫はほとんど全てがメスで、交尾せずに産卵し、その卵から翌年幼虫が孵化する。一個体の産卵数は平均で300個程度とされ、一個ずつあちこちの樹皮下などにばらばらに生みつけられる。時を経た卵は、近くに来たセミの翅の振動などを感じて孵化し、取り付いて寄生生活に入ると言われる。

 

僕は、少し興奮して、今年の夏休みの自由研究は、この不思議な寄生虫のことを調べようと心に決めた。専門書には、寄生したあとの幼虫の成長や暮らしについては細かく書かれているけれども、肝心の寄生する方法についてはあいまいだ。卵から生まれたばかりの1ミリに満たない幼虫が、どうやってあんな用心深くて敏捷なヒグラシの成虫に寄生することができるのだろう。そのことを具体的に解明できれば、きっと立派な自由研究になるだろう。ただ、そのことはいくら考えてもよくわからなかった。

 

セミヤドリガ その2 -フィクションの試みとして

僕は、林の中を歩いていた。

そこは、ケヤキの植林だった。枝打ちされ、間引きされて、まっすぐに伸びた幹の間の空間は、比較的明るく、その斜面の山道を歩くのが、僕は好きだった。夏になると、僕の目当ては、植林のはずれにある雑木林で生まれるクワガタやカブトムシだった。

6月になると、雨が多くなり、渓流の水嵩も増えてきた。

ある日、林のあちこちから、カエルの鳴き声のような声が聞こえることに気が付いた。

「ゲッ、ゲッ」

それが、人の気配に驚いて、木の幹から飛び立つ虫の鳴き声であることに気づいたのは、半月ばかり経ってからだった。人の気配に逃げ出す姿から、それが小さなセミであることはじきにわかった。

僕は、セミにはさほど興味がなかった。

林に入らなくとも、庭木や街路樹には、クマゼミアブラゼミの姿が当たり前にあって、それらは大声でわめき散らしながら、人が近づいてもめったに逃げるそぶりをみせなかった。

新種か、そうでなくとも珍しい種類のセミが大量発生しているのではないか。

僕は、その日から、注意深く林を歩いて、そのセミの正体を見きわめようとした。しかし、僕の期待は、あっさり裏切られた。少し青味がかった、透明な羽をもつ小さなセミは、昆虫図鑑によると、あのヒグラシだったのだ。

ヒグラシなら、朝や夕方林の奥から、カナカナカナカナという特徴のある声を毎年、ごく普通に聞いている。ただ確かに、その姿を確認した記憶はない。どことなくさびしげな鳴き声から、もっと孤独で落ち着いたセミを勝手に想像していたのだ。僕はもうそれほど興味を持たずに、人の足音にケヤキの幹から逃げ惑う臆病なヒグラシの姿を目で追うようになった。

 

セミヤドリガ その1 -フィクションの試みとして

わたしは、宇宙をさまよっていた。

わたしは宇宙船の上で生まれたのだと思う。気づいた時には、星々のきらめきの中を、わたしを乗せた宇宙船はどこまでもまっすぐに飛んでいた。ときたま、宇宙船は、光のない暗い天体の上に降りたった。すると船体は、ざらついた地表の上を、じりじりと動き出す。何かを探るようにしばらく移動した後、固い地盤に尖ったパイプのようなものを突き刺すと、ごおごおと音を立て、地表のすぐ下を流れる液体状のエネルギーを吸引しているようだった。しかし天体に停泊中も、わたしは上陸を許されることはなかった。宇宙船の航行は、まったく自動で行われており、コックピット(操縦席)らしきものは船内には見当たらなかった。

私が暮らしているのは、宇宙船の本体から張り出したキャビン(船室)の中だった。

キャビンは、天体に着陸するたびに、部品を調達し、長年の間に少しずつ増築されていった。わたしの成長とともに、わたしの生活のために必要な物資が増え、より広い環境が必要になったからだ。

天体に停泊中、その宇宙基地らしき平地には、他の宇宙船が、並んで止まっていることもあったが、それを観察することで、宇宙船にも形や大きさの違うタイプやあること、また、キャビンのない無人の宇宙船もあることを知ることになった。

わたしは、ときどき深い眠りについた。

眠りの中で、わたしは、きまって、どこか見知らぬ天体に暮らす少年になっていた。少年になって、その惑星の湿った林の中を歩いていた。目覚めると、わたしは、かつて自分がそんな少年だったような気もした。しかし、実際には、宇宙船での退屈な日常が繰りかえされるばかりだった。