僕は、林の中を歩いていた。
そこは、ケヤキの植林だった。枝打ちされ、間引きされて、まっすぐに伸びた幹の間の空間は、比較的明るく、その斜面の山道を歩くのが、僕は好きだった。夏になると、僕の目当ては、植林のはずれにある雑木林で生まれるクワガタやカブトムシだった。
6月になると、雨が多くなり、渓流の水嵩も増えてきた。
ある日、林のあちこちから、カエルの鳴き声のような声が聞こえることに気が付いた。
「ゲッ、ゲッ」
それが、人の気配に驚いて、木の幹から飛び立つ虫の鳴き声であることに気づいたのは、半月ばかり経ってからだった。人の気配に逃げ出す姿から、それが小さなセミであることはじきにわかった。
僕は、セミにはさほど興味がなかった。
林に入らなくとも、庭木や街路樹には、クマゼミやアブラゼミの姿が当たり前にあって、それらは大声でわめき散らしながら、人が近づいてもめったに逃げるそぶりをみせなかった。
新種か、そうでなくとも珍しい種類のセミが大量発生しているのではないか。
僕は、その日から、注意深く林を歩いて、そのセミの正体を見きわめようとした。しかし、僕の期待は、あっさり裏切られた。少し青味がかった、透明な羽をもつ小さなセミは、昆虫図鑑によると、あのヒグラシだったのだ。
ヒグラシなら、朝や夕方林の奥から、カナカナカナカナという特徴のある声を毎年、ごく普通に聞いている。ただ確かに、その姿を確認した記憶はない。どことなくさびしげな鳴き声から、もっと孤独で落ち着いたセミを勝手に想像していたのだ。僕はもうそれほど興味を持たずに、人の足音にケヤキの幹から逃げ惑う臆病なヒグラシの姿を目で追うようになった。