大井川通信

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日本海海戦記念碑をめぐって③【建築家 徳永庸】

★徳永庸については、すでにこのブログに書いている。玉乃井プロジェクトの終了後、古賀市青柳の生家跡や国立市の旧居を訪ねたりした。福岡県内の作品では、旧福岡銀行門司港支店が結婚式場に模様替えされ、久留米市中心街のカトリック教会が改修を経て現役で使われている。

 

【建築家  徳永庸】

正弘氏は先ほどの文章に続いて、経費の都合と大砲据付の追加計画により、忠太の了解を得て「海軍省の住木技師や本県出身の早稲田大学講師徳永庸氏」の設計に変更され、最後に正弘氏の希望を加えて「戦艦司令塔型」が完成したと書いている。最終的な設計には、正弘氏が二番目にフルネームで名を挙げた徳永庸が多く関わっていると推測するのが自然だろう。

徳永庸(1887-1965)は現在の古賀市青柳の出身であり、福岡工業学校を経て、早稲田大学理工科建築学科の第一期生となっている。この時伊東忠太も講師を務め、第一期生の卒業記念写真には総長大隈重信と並ぶ忠太の姿が見える。

徳永庸は早大で教鞭をとった後、昭和2年に徳永建築設計事務所を開き、以後旺盛な創作活動を続けた。戦前の作品では佐賀市内に徴古館(1927年)が現存しており、戦後福岡では福岡銀行の建築を多く手がけたが、今ではほとんどが建て替えられているようだ。私には北九州市の井筒屋の隣に建っていた福銀小倉支店のいかにも銀行らしい古風な姿が印象に残っている。

先月帰省した折に、東京神田に残る戦前の作品、山梨中央銀行東京支店(1931年)を見てきたのだが、装飾を排したシンプルな構成は、海戦記念碑の無表情な印象に通じるのではないか、と考えてみた。しかし一番の驚きは、早稲田の図書館で、徳永庸の追想録を手にした時に訪れた。この本によると、徳永庸は戦後、国立市に住んでいたようなのだ。住所を見ると私の実家から一橋大学を挟んで直線で1キロメートル余りであり、その辺りの街並みを思い出すことすらできる。

しかし、正直なところ、設計者徳永庸とその作品に親しみを感じるようになっても、日本海海戦記念碑の造型自体に新たな魅力を見つけることはできなかった。やはり、このんデザインを決定付けたのは、「戦艦司令塔型」を希望した安部正弘氏自身ではないのか。

『いのちの限り』には、出来上がった記念碑の模型を満足げに見つめる正弘氏の写真が載せられている。彼はさっそくこの模型を東郷平八郎のもとに届けて記念碑の建設を報告しているのだが、大いに喜んだという東郷は翌年の記念碑の完成を待たずに世を去ったので、正弘氏にとってこれが最後の面会となったようである。