大井川通信

大井川あたりの事ども

日本海海戦記念碑をめぐって②【伊東忠太と幻の設計】

★地方の無名の記念碑は、意外にも伊東忠太という全国区の名前と結びつき、僕自身の故郷での記憶につながっていく。

 

伊東忠太と幻の設計】

安部正弘氏の伝記『いのちの限り』には、海戦記念碑の建設の経緯に触れた部分があって、大正10年(1921年)に記念事業を思い立ち、翌年には「斯界の権威伊東忠太博士」に設計を依頼したことが記されている。

伊東忠太(1867-1954)は、明治時代に「建築」という訳語を定着させた日本建築史の創始者で、、西欧一辺倒だった100年前に3年かけて世界一周旅行を試みてアジアをつぶさに観察するなど、そのスケールの大きさから近年注目を集めている建築家である。

しかし、そんなこと以上に、自分には伊東忠太は親しい名前だった。私の故郷の東京都国立市は昭和初めに学園都市で売り出した新興住宅地だが、その中心を占めるのが、都心から移転してきた東京商科大学(現一橋大学)のキャンパスだった。その設計に従事したのが伊東忠太で、池や林、庭園を囲んで、様々な怪獣の装飾をあしらったレンガ張りの建物が配されている。子どもの頃には、広々とした大学内をほとんど公園のようにして遊びまわっていた。いってみれば自分は忠太の作った遊園地で育ったようなものである。

しかし記念碑の建設は、関東大震災による募金事業の中断によって頓挫してしまう。忠太の作品歴を調べると「1922年 日本海海戦記念碑(中止)」という記述があるが、正弘氏の回想を裏付ける記録である。

もしあの記念碑が武骨な戦艦型でなく、伊東忠太の当初の設計であったら、どうだったのだろう。そんな空想に促されて、福岡市西区の今津にあるという伊東忠太設計の元寇記念碑を訪ねてみた。

この記念碑は、大正の初め頃、今津の海岸で元寇防塁が発掘されたことを記念して、当時の村長らが建設運動を起こし、大正4年(1915年)に完成している。しかし、実際の防塁跡や由緒ある寺社とは違って、普通の地図はもちろん、観光マップや案内板の表示もない。ようやく小さな丘の上に立つ記念碑にたどり着いたのだが、博多湾を見晴るかす素晴らしいロケーションである。

記念碑は「元寇殲滅之所」という、すさまじい碑文が刻まれているが、二段の大きな台座の上に堂々とした石碑がバランスよく据えられていた。頂上部の不思議な曲線とハートマーク!が忠太らしさを控えめに演出している。今後近代遺産の評価の流れの中で、文化財としての価値がいずれ認められるかもしれない。一方、不幸にして忠太の設計が実現しなかった我が日本海海戦記念碑の方は・・・