大井川通信

大井川あたりの事ども

日本海海戦記念碑をめぐって①【はじめに】

★13年前の玉乃井プロジェクトでの僕の作文「日本海海戦記念碑をめぐって」を、7回に分けて章ごとに紹介したい。なお、東郷平八郎の書による碑文は「紀念碑」と刻まれているが、この作文では、通常の表記に従っている。地元では知られた東郷公園と記念碑が、安部さんの親族の尽力によるものだと知ったのは驚きだった。2007年4月29日に拡大版の「9月の会」で報告。いつもの安部さんの他、外田久雄さん、友池理恵さん、森山安英さんら美術家の参加があった。

 

【はじめに】

宗像から峠を越え、広々と海に面した農耕地に沿って津屋崎に向うと、まもなく大峰山とその山頂に刺さった杭のような日本海海戦記念碑が見えてくる。

10年以上前、両親が福岡に来たとき、東郷神社とこの記念碑を案内したことがあって、そのとき父がひどく饒舌になっていたのを覚えている。父は太平洋戦争の軍隊体験者として戦争と天皇を毛嫌いしていたが、祖父も従軍していたという日露戦争については、どこか懐かしむ気持ちを持っていたのかもしれない。

ちょうど一年前の4月に父が82歳で死んで、この海戦記念碑は自分にはいっそう思い出深いランドマークになっている。今回思いがけず、旧知の安部文範さんの祖父正弘氏が記念碑の建設者であることを知り、驚くとともに、この異形の記念碑について調べてみようと考えた。

日本海海海戦記念碑が軍艦の形をしていることは、多少注意深くこの記念碑を見る人なら誰でも気づくだろう。1.5メートルほどの高さに築かれた基壇が舟形をしており、それが船体を現している。基壇(デッキ)の前方には、はっきりそれとわかる大砲が据え付けられているから、そのすぐ後ろの二層の箱型の構造物が、戦艦の司令塔を模したものであることはすぐにわかる。

司令塔の上に高くそびえるマストの部分が、この「船体」を真後ろから見た場合に、文字が記された記念碑の本体になっているのだ。だから、正面の石段のアプローチから、この記念碑を仰ぎ見たときには、軍艦を模した仕掛けはすっかり隠されていることになる。もっとも今では、東郷公園の山頂に開けた広場の方からこの記念碑に近づくのが普通だから、初めから「船体」を真横に眺めることになるのだが。

以前から私はこの仕掛けをおもしろいと思っていたのだが、この武骨な記念碑の造形自体に魅力を感じることはなかった。