大井川通信

大井川あたりの事ども

『学校の戦後史』木村元 2015

以前、政治学原武史の『滝山コミューン1974』(2007)を読んだときに、近代以降の歴史について専門分野にとどまらない膨大な知識をもっている著者が、戦後教育の歴史について無知であることに驚いたことがある。この本を高評価でもって迎え入れた論壇や読書界に対しても同様な感想をもった。

原は、自分が公立小学校で受けた教育が民間教育研究団体の全生研(全国生活指導研究協議会)の強い影響下にあったことを突き止め、そのイデオロギーをピンポイントで批判する。しかし、戦後教育の歴史という文脈を踏まえていないため、その批判は公正なものとはいえなかったし、この本があたかも戦後教育全体の問題点をとらえたものであるかのような識者の書評も、バランスを欠いたものだった。

知識人の間では、戦後の歴史についておおまかな共通了解があるだろう。戦後復興期から高度成長期、オイルショック以後の低成長期、バブル崩壊以降の失われた20年。社会学者はそれを「理想の時代」「夢の時代」「虚構の時代」「不可能性の時代」というふうにしゃれて名付けたりする。政治、経済、文化のそれぞれの分野で、歴史は強い屈折をはらみ、多層化されたものとして理解されている。

にもかかわらず、教育に関してだけは、あたかもそれが不変で十年一日のものであるかのようなイメージが支配的なのだ。だから自分の受けた数十年前の教育に基づいて学校を語る人が多いし、彼らはそれがまったく正当なことと思い込んでいる。知的に洗練されてはいても『滝山コミューン1974』も同様の弊害に陥っている。

『学校の戦後史』を読むと、そうした固定観念が間違いであることがよく分かる。それどころか著者は、「学校の戦後史とは、戦後の学校と社会との関係史であった」と言い切っている。だとしたら、学校は社会の方を向いて必死にアピールをしているにも関わらず、社会の側はその努力をほとんど視野に入れていない、という片思いの関係といえるかもしれない。

本書は、学校をめぐる多くのトピックを、教育史というパースペクティブの中でコンパクトに位置付けている。たとえば、『滝山コミューン1974』ですっかり悪役にされた全生研だが、ここでは高度成長期以降の「産業化社会への対応」に対するリアクションとして「民主社会の担い手づくりの実践」として評価される。さらに、全生研自体も、90年代以降の社会基盤の動揺の中で、集団作りの前提となる子どもたちの関係性の基底に目を向けるようになったことが指摘される。

薄い新書の中に十分な情報を詰め込んでいて便利だが、この問題に対する一般の蒙を啓くには、内容も文体もやや硬すぎるかもしれない。

 

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