大井川通信

大井川あたりの事ども

情事をどう浄化するか

ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を読んで、小説としての面白さというよりも、もっと別のことを考えさせられた。

人間の男女のこと、性愛をめぐることに関しては、つつきだせばいろんなパターンなり、可能性なりがあるだろううが、どれも客観的にみれば、どうしようもなく卑小で見苦しいことばかりだ。もう少しひろげれば、これは家族の事になるだろうが、これも実際には、人に見せられないようなどうしようもない瑣事にあふれている。

だからこそ、そこから目をそらすことができるように、世間には薄っぺらい道徳と美談が蔓延しているのだろう。どんな俗悪(キッチュ)な仮面であっても、それを脱ぎ捨てるわけにはいかないのだろう。

昔、吉本隆明が流行っていたころ、人間の観念の世界は「自己幻想」「対(つい)幻想」「共同幻想」の三領域に分けられる、その中でも「対幻想」と「共同幻想」は「逆立」するということが、まことしやかに語られていたが、下町のオヤジ的で肉感的な思想家吉本がつかみ出したこのテーゼの意味合いは、今になってみると生活実感的によくわかる気がする。

男女の仲、その性愛にかかわることは、人生の多くの部分(大部分?)を占めているけれども、これを公共の場にそのまま出すわけにはいかない。それは、我々がふだん言葉を交わして生活する世界とは次元や時空を異にした、逆転した世界なのだ。

実際のところ、この部分と折り合いをつけて生きていくのは難しい。自分のことを振り返っても、なんとか目を背けて生きてきただけであって、これを正視することも、まして納得することも出来ているわけではない。

さて、クンデラである。クンデラは、第三者である雄弁な語り手を介することで、そしてこの語り手がひたすら理屈をつけ続けることで、男女のしょうもない情事を救い出そうとしているかのようだ。これは、観念や思弁という煙幕による肯定といっていいだろう。

もう一つは、男女のしょうもない情事を、世間道徳を飛び越えて、歴史的世界的な大きな舞台へと結びつけることだ。その(目くるめく)飛躍と距離感が、卑近な情事を情事のままに肯定・浄化してくれるようだ。

煙に巻くことと、目くらましをつかうこと。この二つの手法なら、僕なりに試みることができるだろう。クンデラ先生、ありがとう。