大井川通信

大井川あたりの事ども

予言をめぐって

安部公房(1924-1993)の『第四間氷期』(1959)を読む。

題名から、勝手にスケールの大きくてスマートなSF活劇みたいなものを想像していたのだが、50年代の安部作品らしい、ねちっこい対話で構成された、不気味に歪んだイメージの話だった。

この小説で重要な役割を演じるのが、ある研究所で開発された予言機械と呼ばれる電子計算機だ。初めはこの機械が、近い将来の出来事を当てるくらいだったのが、人類の未来までも映し出すことになったことで、これにかかわる人々の運命を大きく変えることになる。

だから、この予言機械の存在にリアリティが感じられなければ、この小説は絵空事に見えてしまう。50年代末の読者には何の問題もなかったのだろうし、1970年の磯田光一の文庫本解説も、未来とのかかわりというテーマを論じるだけで、予言についてはスルーしている。

しかし、今読むと、この予言の仕組みに何とも違和感しかわかないのだ。何人かの研究所員が手分けして集めてきたデータを、せっせと手入力で電子計算機に読み込ませる。こんな作業で、特定の人間の正確なふるまいから、人類の未来世界の細部までも予言できるというのだから。

一つには、科学の進歩への信頼や電子計算機という存在への幻想が強くあったのだろう。さらには、歴史の必然を解明したという社会思想が支配的に信じられている時代でもあった。きっと予言というものへのハードルが低かったのだ。

数年前にアメリカのテレビドラマで、監視カメラの映像やネットワーク上のあらゆる情報に自在にアクセスすることで、これから起こる犯罪を正確に予言するコンピューターシステムを主役にしたものがあった。冷静に考えると、これだって相当無理な設定なのだが、それだけの膨大な情報処理が可能ならひょっとして、というリアリティがあった。しかし、これも個人の行動予測がせいぜいのところだろう。

80年代の板橋しゅうほうのSFマンガで、ある空間的に限定された世界のなかでの予言を描いているものがあった。その世界内の情報ネットワークにアクセスできる能力者たちは、近い未来の出来事を予測できるのだが、それはあくまでも「疑似的な」超能力にすぎないという設定である。

しかし、こうした疑似的な超能力なら、必ずしもコンピュータネットワークを必要としないかもしれない。吉本隆明は『共同幻想論』の中で、柳田の「遠野物語」の怪奇談について身もふたもない解釈を行っている。狭い村落共同体の中では、お互いの家庭内の事情まで情報が行き渡っており、それらに基づく心配や推測が、あたかも予言やお告げであるかのような見かけをとるというのだ。

今でもこうした卑近な物事への予言は、占いという形で蔓延しているといえる。一方、世界の在り方が一新されるような未来への感性は、この本が書かれた50年代と比べて極端に鈍麻しているような気がする。