右翼と左翼の区別を直観的に理解するには、マルクス経済学者松尾匡の考案した模式図を使うのが便利だ。以前の記事にもそういうことを書いた。
社会という円を、縦に線を引いて左右の二つに割り、内と外に分けたうえで、内に肩入れするのが右翼。
横に線を引いて上下の二つに割り、強者と弱者とに分けたうえで、弱者に肩入れするのが左翼。
この理解が優れているのは、二つの立場は、どちらかだけ選択すればいいような政治的対立ではなく、人間が兼ね備えている二つの大切な考え方であることを教えてくれるところだ。内外の区別の大切さをないがしろにする左翼も、強弱の別を無視する右翼も、手痛いしっぺ返しを受けるだろう。仲間とともに、弱い個人として生きるのが人間の常だからだ。
外よりも内を大切にするのは、当たり前で自然な感情だろう。自分や家族、郷土、同胞を優先するのは当然のことだ。しかしこれだけでは、外への差別や暴力を止めることはできない。内や外にかかわらず、そこに困った人々、虐げられた人々がいるのなら何とかしたい、というのも人間らしい心情だ。
卑近な例だが、僕の住む田舎の街でも、外国人の姿が目立ってきた。そのことを口にするとき、たいていの人は眉をしかめる。僕もその気持ちはよくわかる。ただし左翼の矜持として自然感情に押し流されてばかりはいられない。それで、ネパール語を勉強して、彼ら彼女らと親しく接するようにしてみた。
それが単純に楽しいというだけではない。若い彼らは、やがて母国を始めとして世界に散っていくだろう。そこで日本の応援団になってほしいと思う。彼らとの交流が将来の日本のためになってほしいという右翼らしい願いも僕の中にはある。
ところが、最近、この左右のバランスが崩れてきているのを感じる。
身内ファーストが目新しいスローガンのようにかかげられて、弱者への配慮など悪といわんばかりの主張が目立つようになった。ネットでは左翼のアラを探す主張があふれかえっているし、実際のところ既存の左翼の姿は魅力的にみえない。
しかし、左翼には、弱者に配慮するという大切な働きがある。大半は弱者かその予備軍である人々にとって、これは本当は困った事態のはずである。
そこでこの左翼の凋落について考えてみて、その原因について思いつくことがあった。
右翼が足場とするのは「内」であり、つまりは自分(たち)である。当然ながら自分のことは自分が一番よくわかっている。だから右翼の主張は、時代や社会の変化に臨機応変に対応できるし、それは人々の中にある右翼的感情にリアルに刺さることになる。
ところが、左翼が足場とするのは「弱者」であり、それは自分たちの外側にあるものだ。いったんつかまえた弱者の姿は、容易にリニューアルすることができない。例えば、かつてその代弁をしていた正規労働者にかわって、非正規労働者という弱者が浮上してきても簡単にスタンスを変えられない。
左翼の提示する弱者は、構造上どうしても硬直化しやすい。現実とのずれというスキが生まれてしまうからこそ、どこか観念的な身振りに見えてしまい、利権やビジネス目的ではないか、外国からの指示に従っているのではないか、などという「批判」を招きがちなのだ。