大井川通信

大井川あたりの事ども

ミカンを食べる二羽のカラス

川の浅瀬に浮いていた大きなミカンを、一羽のハシブトガラスがくわえて、川べりまで持ち帰って食べ始めた。片足で動かないように押さえてから、鋭い嘴の先で打撃をくわえて穴をあけると、そこから嘴を入れて果肉をひっぱりだして食べている。なるほど、カラスの嘴の形状は多機能で雑食に向いている、と双眼鏡越しに観察しながら感心する。

するとそこへ、もう一羽のハシブトガラスがやってきた。こちらの方が明らかに大きい。ハシブトガラスハシボソガラスよりも体格が良く、おでこが出ていてゴリラをイメージしてしまうのだが、今度の個体は筋骨隆々としていっそうゴリラ感が強い。

どうなるのだろうか。大きい個体は、周囲に飛び散った果肉をつつきながら、小さな個体に近づいていく。すると、小さな個体は、足もとのミカンから目を離して、そっぽを向く動作をする。そのすきに、大きな個体はやすやすとミカンを奪い取って、少し離れた場所で食べ始める。この一連の動作は、僕には、小さな個体が争うことなく、わざとエサをゆずったように見えた。その証拠に、小さい個体は、ミカンに未練があるかのように、その場所から離れずに、なにやら手持無沙汰の様子だ。

大きな個体は、はるかに豪快に果肉を房ごと取り出して食べまくっている。これでは残りを期待できないだろうと心配になったその時だ。大きな個体は、急に振り向くと、小さな個体の方に近づいて、ミカンの一房を、口移し(いや嘴移し、か)で渡したのだ。すぐに戻ると、何事もなかったかのようにむさぼり続ける。これでがまんしとけ、ということなのだろうか。小さい個体は、それを食べると、川の向こうへ飛んでいってしまった。やがて大きな個体もひとまず食欲をみたしたのか、食べかけのミカンをくわえて林の中に消えていった。

ちなみに、カラスが獲物を林に持ち込むことでは、こんな経験がある。先日、海岸にたくさんのハリセンボンが漂着した。寒波で水温が下がったかららしく、珍しい出来事として地元の新聞でも紹介されていた。そのあと、海に近い林の中を歩くと、あちこちでハリセンボンが落ちているのを見つけることができた。おそらくカラスの仕業だろう。ただしハリセンボンの皮が厚くて食べにくいためか、ほとんどが手つかずのままだった。

 

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中村宏と安部公房

安部公房の『飢餓同盟』を読みながら、中村宏(1932-)の初期の頃の絵を連想したので、久しぶりに画集をとりだしてみた。小説では、田舎町を舞台にして、動物めいたグロテスクな人物たちがうごめいて、革命や闘争が奇怪で生々しい展開を見せる。

この小説が書かれた1950年代前半には、若い反体制的な画家たちが、ルポルタージュ絵画を提唱した運動があった。画家たちは、米軍基地反対闘争やダム建設反対運動の現場に乗り込んで、それを題材に絵を描いたのだが、ルポといいながらリアリズムではなく、現実をおどろおどろしく超現実主義の手法を用いてとらえた。そのメンバーだった中村宏の「砂川五番」(1955年)では、どす黒い空の下、米軍基地の装甲車や輸送機をバックにして、ゾンビのように連なる農民と警察隊が向き合い、ぶつかり合う。池田龍雄や山下菊二、桂川寛といった画家たちも、化け物めいた強烈なイメージをしぼりだすような絵を描いていて、これらは明らかに『飢餓同盟』の世界とつながるものだ。

画集の解説を走り読みすると、安部公房と、中村宏池田龍雄(1928-)は、共通のグループに関係していて、実際に近い関係にあったようだ。僕の連想にもそれなりに根拠はあったのだ。そう考えると、また別の連想が頭をもたげてくる。60年代以降、中村宏池田龍雄も、独特で奇妙なイメージを深めながらも、初期のとげとげしさやおどろおどろしさを失って、洗練されてつるっとした質感の絵を描くようになる。一方、安部公房も、60年代以降、作風に同様の変化が見受けられるように思える。

これは単純に技法の進化や洗練といった問題ではなく、日本社会の大きな変動に強いられた変化ではないのか。まったくのあてずっぽうでしかないが、この先安部公房をまとめて読むつもりなので、課題としてメモしておきたい。

ばびぶべぼ言葉の謎

ネットで検索すると、ばびぶべぼ語、もしくは、ばび語とも呼ばれているようだ。

「こんにちは」なら、「こぼ・んぶ・にび・ちび・わば」というように、一音節ごとにバ行の同じ段(母音)の音を入れて話す。国語辞典の解説では、はさみ言葉と呼ばれて、江戸時代の遊郭で使われるようになった隠語のことで、当時はカ行の音をはさんでいたそうだ。少なくとも今の中年世代の子ども時代にある程度の流行があり、7年ほど前、テレビの人気番組で紹介されたことで、今の若い人たちにもある程度知られているようだ。おそらくブームの有無にかかわらず、言葉遊びの一種として連綿と受け継がれてきたものなのだろう。これだけのことがさっとわかって、長年の疑問が解けてしまった。ネットの力はすごい。

東京郊外の公立中学のあるクラスで、70年代半ばにこの言葉が爆発的に流行っていたのは、まぎれもない事実だ。女子を中心に、教室でこの言葉が飛び交っていて、使えない人間は疎外感を味わうほどだったと思う。僕は、50音表を「あば・いび・うぶ・えべ・おぼ・かば・きび・・・」というように繰り返し練習して、マスターした。

話せるようになると、不思議と難なく聞き分けられるようになる。また、初めて聞く人はたいていチンプンカンプンだが、中にはすぐに聞き取れる耳のいい人もいる。また若い頃いったん話せるようになると、何年放っておいてもその能力は失われない。これって、他の語学と同じだ。

こうして、ばびぶべぼ言葉の披露と、そのエピソードやえせ語学理論の開陳は、僕の鉄板ネタとなった。しかし、今までこの言葉を使える人はおろか、知識がある人にさえめったに会った記憶がない。だから、相当限定的な知識や技術だろうという感触があったのだが、それ以上調べようがなかったのだ。

ただし、「蜂が飛ぶ」の歌詞の言葉の間に、すべてルを入れるという替え歌の方は、ずっと広く知られている。「ぶるんぶるんぶるん、はるちるがるとるぶる・・」と歌うものだ。 ところで僕は、これにヒントを得て、ばびぶべぼ言葉で「どんぐりころころ」を歌いきるというオリジナル技を開発して、ここぞという時に披露している。

『飢餓同盟』 安部公房 1954

読みながら、違和感を持ち続けていた。「同盟」という政治運動のグループ(党派)の問題を扱っているのだから、おそらく60年代後半の作品とかってに思い込んでいたのだ。それにしては様子が変だ。実際には、終戦後まだ9年という時期に出版された小説だったことに読後気づいて、納得がいった。

僕たちのすぐ上の世代は、連合赤軍事件(1972年)に行き着くような学生運動における党派の問題点を、切実に批評や小説の形で扱っていた。そこでは主役は「戦無派」の学生であり、マルクス主義理論武装の下に、観念的に正義を突き詰めることで、革命が内ゲバへと反転してしまう過程が描かれる。

この小説の登場人物たちは、戦前と戦争体験を直接に引きずっている。学生はおらず、マルクスもレーニンも語られることはない。主人公の花井自身、革命を語るものの、右も左も関係ないといい、工場勤めだが組合結成にも関心がない。飢餓同盟の飢餓とは、プロレタリアートとは関係がなく、花園町の境界の守り神であり、かつよそ者を意味する「ひもじい」の言い換えなのだ。ひもじい同盟とは、伝統的な共同体の中で、土地の有力者たちによって虐げられてきたよそ者たちによる同盟である。彼らの原動力は、町の支配層への恨みと反発であり、今に目に物見せてやるという以上のビジョンがあるわけではない。(70年の文庫本解説では、今ではこっけいに思えるくらい花井たちをユートピア革命家と過剰に持ち上げている)

土地の土俗に根を持つひもじいたちの姿は、グロテスクだ。花井は猿のように尻尾をもち、井川はイボガエルと呼ばれ、織木はナチスの技術による機械人間である。彼らが見出した地熱発電による町の支配の夢はついえて、戦前からの有力者たちの連合によって利権はかすめ取られてしまう。その有様は、どこか気味の悪い戯画であるが、騒然とした時代のざらざらした手触りをしっかり残しているようだ。後年のスマートな作品とは違った魅力を放っている。 

「きゃりーぱみゅぱみゅ」の言い方

6、7年前にきゃりーぱみゅぱみゅが歌手で大ブレイクした頃、名前をかまずに言う裏技がラジオなどで話題になっていた。その時、自分が気に入った二つの方法を覚えて、機会を見つけては得意になって人に吹聴していた。さすがに今では旬を過ぎているが、秘蔵のネタとして、思い出して会話で使うことがある。

理解するために一番良い方法は、それを他人に説明することだそうだが、僕は自分が面白いと思ったネタは、臆面もなく人に話してしまう。板(舞台)にかける、というと大げさだが、相手の反応をみて、徐々に話法が洗練されるし、記憶にもしっかり定着していつでも引き出せるようになる。大の大人でこうしたことを心掛けている人は、あまり多くはないようだ。小学生の頃から、手品を見せることが趣味だった影響なのかもしれない。

ただ、ネットの時代には、この手の小ネタや小技の正体は、すぐに検索で明らかになってしまう。それが残念だったり、時にはありがたかったりするわけだが、「きゃりーぱみゅぱみゅの言い方」でざっと調べると、僕の覚えた二つの方法のうち一つは必ず出て来るが、もう一つは見当たらない。

必ずあるのが、ドラえもんが秘密の道具を出すときの口調でいう、というものだ。もう一つは、片手の手のひらでアヒルの口をつくり、パクパクさせて腹話術の人形のようにしゃべらせる、というやり方だ。たしかにこちらはちょっと説明がわかりにくくなる。

なぜこの方法で言いやすくなるのか。ネットにはない解釈を試みてみよう。きゃりーぱみゅぱみゅが言いにくいのは、日本語の通常の使用では使うことのない音の並びだからだろう。慣れないことを、いつも通りのやり方(スピード)でやろうとするから噛んでしまう。逆にふだん意識していない口の動きを意識してつくろうとしても、かえってぎこちなくなって噛んでしまう。

一語一語区切って発音するようなモデルを作って、それに合わせて発音すると、言いなれない音のつながりを、復唱という身についたやり方でクリアすることができる。それではモデルをどうするのか。一方は、ドラえもんというおなじみのキャラクターを観念的にイメージする。もう一方は、腹話術のアヒルを片手で物理的に作り出す。二つの方法は、同じ原理を観念と身体という異なる方法で具体化していることになるだろう。

グリコのおまけ

もうだいぶ前に亡くなった知人で、太平洋戦争の戦場で戦友のほとんどが戦死する中、生き延びた経験をもつ人がいた。彼は、残りの人生を「グリコのおまけ」と表現して、それは他人のためにささげるのだと公言していた。そこまで極限の経験がなくとも、戦中派の人たちは、自分の人生を方向付けるものとして戦争を受けとめていたと思う。大正13年生まれの評論家吉本隆明は、思想の原則ををそこから動かさなかったし、身近では同年生まれの僕の父親も、生活信条において一貫していたと思う。

「戦争をしらない」世代の中でも、学生運動の経験を、自分の人生の糧としている人もいた。僕は、そのあとの新人類と言われた世代に属していて、学生の頃には、もう政治の季節は終わりを迎えており、豊かな消費を中心とした社会が成立しつつあった。その後、東西冷戦の終結バブル崩壊や震災等があったけれども、社会も世代も大きな曲がり角や節目を経験せずに、現在までやって来た気がする。それは幸せなことだろうが、自分の人生を大きくつかみなおす機会を持てなかったことも意味する。

先日、ヒトの寿命は本来55歳程度だという学説を知った。根拠は、この年齢あたりから癌(DNAの複製エラー)による死亡が急増することだという。55歳以降の人生は、公衆衛生や栄養状態の改善や医学の発展という「文明がもたらした生」なのだ。僕は、ちょうど本来の寿命を超えたあたりなのだが、身体の様々な衰えという実感によって、この学説の主張に納得してしまうところがある。

しかし、だとしたら、残りの人生を「グリコのおまけ」として、自分のためだけでなく生きるという方針転換ができるのではないか。この絶好の機会を逃すべきでないだろう。

『学びとは何か』 今井むつみ 2016

一読して、著者がとても誠実で優秀な学者である、というのはまるで門外漢の僕にも感じられる。新書の入門書として、とてもていねいに、わかりやすく書かれている、というのもわかる。かかれている主張も、どうみても正しいものだ。

しかし、どうしたものだろうか。この認知科学というのか、教育に対して声高にものをいう「科学」のありようは。たいてい、巻末にこれ見よがしに英文の参考文献が列挙される。エビデンスと称して、まるで文化も違う外国の、条件が限定された「実験結果」が金科玉条のように引用される。生硬な翻訳語のキーワードが、それをわかりやすい日本語に言い換えようとする努力ぬきに、ずらずらと並べられる。そのあげくに、「学び」や「教育」に関する、およそ実践的でないお説教が、あれもこれもと付け加えられる。その内容たるや、子どもと多少真剣に向き合っている親や教師なら、だれでも気づけるようなことなのだ。この本も、こうした印象を免れてはいないような気がする。

知識を、頭で知っているだけの、実際には使えない、事実に関するものと考えるのは間違いだ。知識は、自分で発見して使いこなしながら、ダイナミックに再編を繰り返し成長する生きたシステムである、という著者の主張の中心は正しいと思う。言い回しは多少複雑だが、誰もが勉強や仕事や生活の現場で経験している内容だ。

しかし、著者はその知識観を、「探究エピステモロジー」というガチガチの言葉に「置き換え」てしまい、以後その言葉が本書のなかで大手をふるうことになる。だから終章での、探究人を育てるシンプルな鉄則までが、「探究エピステモロジーを持つこと」になってしまう。一般の読者が、この用語を、単に知識として仕入れるだけでなく、自らの知識の生きたシステムに組み込むことを期待しているのだとしたら、あまりに楽観的すぎる。あるいは、学問の輸入体質が、いかに日本人の「知識」観に悪影響をもたらしてきたかの自覚が足りなさすぎるだろう。

たとえば、教育現場では、学者たちの唱える目新しいカタカナ言葉が、上位下達のキーワードとして流通し、現場での生きた知識とはならずに次々に打ち捨てられる、という現実がある。学びや教育についての具体的な問題解決は、その現実に向かい合い、適切に問いを立てることからしか始められないと思う。


『人間そっくり』 安部公房 1967

50年ほど前に書かれた本。20年ばかり前に文庫本を買って、そのまま書棚の奥に放置されていた。どういうきっかけで購入したのかまるで覚えていない。おそらくたくさん未読の本とともに、このまま打ち捨てられる運命にあったはずなのに、なぜか読まれてしまい、このやや退色した小説が一時僕の頭の中を占領することになる。

どうでもいい経緯だが、大人しくしていた寓話が、突然実話の中に侵入してきて、攻守所を変えてしまうという小説の設定と、どうも似ているような気がする。主人公は、火星人をキャラクターとしたラジオ番組の脚本を書いている。そこへ「人間そっくり」という創作の原稿をもった火星人を称する男が訪問し、正気と狂気との、実話と寓話との対決が始まる。二人のくどいくらいの対話劇が小説の大部分を占めるのだが、初めは当然ながら優勢だった前者の旗色がしだいに悪くなり、最後には、未知の男が持参した寓話の設定の中に、主人公がのみこまれてしまう。

本物と偽物(そっくり)、現実と虚構との区別が失われるというアイデアは、当時は最先端のものであっても、その後、小説や映画で繰り返されてきたものだ。この小説の魅力は、相容れない立場の両者が、けっして妥協や和解をすることなく、言葉による戦いを完遂しているところにあると思う。現代人は、たとえ自分の所属する現実が頼りにならない状況のなかでも、とりあえず自己を信じる以外に方法はない。不確かな事態に途方に暮れながら「正気」を保とうとする主人公の姿にはリアリティがある。

主人公の現実が揺らぎ始めるきっかけが、火星ロケットの成功というのが、宇宙開発の時代を思い起こさせる。科学技術の暴走が亢進する現状から振り返ると、どこか牧歌的な夢のある技術に思えてしまう。しかし、絶対的な外部であり空想や神話の対象であった宇宙と、この現実とが直結してしまうという事態は、当時の人々には、自分たちの足元をゆるがす衝撃だったのかもしれない。

カメラと鳥見

河口付近の枯れ木の梢で、カワラヒワがキリリと小さく鳴いている。双眼鏡で見ると、左右に首を振り向けながら、そのつど首をかしげている。可愛いのが半分、奇妙なのが半分の動作だ。何のためにしてるのか、考えながら歩いていると、望遠レンズ付きのカメラで、上空をねらっているおじさんに出くわしたので、声をかける。

ちょうど河口の上空では、二羽のミサゴが自在に飛び回りながら、獲物の魚をめがけてダイブを試みているところだ。今、この河口には、よそ者の1羽も加えて、5羽のミサゴがいると教えられる。千枚撮って、気に入るのは数枚だともいう。おそらく水しぶきの立った水面から、大きい魚を両足でつかみ取って飛び立つ瞬間を狙っているのだろう。撮影の合間に、少し猛禽類のことを教えてもらう。この川周辺には、ノスリチョウゲンボウだけでなく、なんとハヤブサもいるそうだ。

本格的に鳥見をしている人は、たいていカメラを構えていて、そのためいっそう鳥の生態にも注意深くなるだろう。いい写真を撮るのは、記念にも励みにもなるはずだ。僕がカメラを持たないのは、単に無精者だからというだけだが、その方が、鳥たちと心を開いて気楽に付き合えるという気持ちもある。僕には、自分の生活圏の中でしか鳥見をしないという原則があるのだが、それとも多少関係しているかもしれない。

正直このまち、何もないよね

オリンピックで活躍した選手が拠点の地元にもどって、口にした感謝の思い。ふと耳にして、言葉の深さに驚く。彼女は、こんなふうに続ける。

このまちにいても絶対夢はかなわないと思っていました。だけど今は、ここにいなかったら夢はかなわなかったなと思ってます。こどもたちもたくさんいろんな夢があると思うけど、場所とか関係なくて、大切な仲間がいたり家族がいたり、どうしてもかなえたい夢があるなら、このまちでもかなえられると思います。

カーリング吉田知那美選手の北海道北見市常呂町での言葉。その土地で何かができるかどうかは、条件や手法以前に、それをやろうとする想いによるのだと気づかされる。また、「何もない」まちにも、実際には人々のつながりを含めて、たくさんの何かがあるのだと。

地方で何かをしようとしている人には、とても切実にひびく言葉だと思う。東京の人には、かるい自虐ネタとしか思われないかもしれないが。