大井川通信

大井川あたりの事ども

『人間そっくり』 安部公房 1967

50年ほど前に書かれた本。20年ばかり前に文庫本を買って、そのまま書棚の奥に放置されていた。どういうきっかけで購入したのかまるで覚えていない。おそらくたくさん未読の本とともに、このまま打ち捨てられる運命にあったはずなのに、なぜか読まれてしまい、このやや退色した小説が一時僕の頭の中を占領することになる。

どうでもいい経緯だが、大人しくしていた寓話が、突然実話の中に侵入してきて、攻守所を変えてしまうという小説の設定と、どうも似ているような気がする。主人公は、火星人をキャラクターとしたラジオ番組の脚本を書いている。そこへ「人間そっくり」という創作の原稿をもった火星人を称する男が訪問し、正気と狂気との、実話と寓話との対決が始まる。二人のくどいくらいの対話劇が小説の大部分を占めるのだが、初めは当然ながら優勢だった前者の旗色がしだいに悪くなり、最後には、未知の男が持参した寓話の設定の中に、主人公がのみこまれてしまう。

本物と偽物(そっくり)、現実と虚構との区別が失われるというアイデアは、当時は最先端のものであっても、その後、小説や映画で繰り返されてきたものだ。この小説の魅力は、相容れない立場の両者が、けっして妥協や和解をすることなく、言葉による戦いを完遂しているところにあると思う。現代人は、たとえ自分の所属する現実が頼りにならない状況のなかでも、とりあえず自己を信じる以外に方法はない。不確かな事態に途方に暮れながら「正気」を保とうとする主人公の姿にはリアリティがある。

主人公の現実が揺らぎ始めるきっかけが、火星ロケットの成功というのが、宇宙開発の時代を思い起こさせる。科学技術の暴走が亢進する現状から振り返ると、どこか牧歌的な夢のある技術に思えてしまう。しかし、絶対的な外部であり空想や神話の対象であった宇宙と、この現実とが直結してしまうという事態は、当時の人々には、自分たちの足元をゆるがす衝撃だったのかもしれない。