大井川通信

大井川あたりの事ども

『かもめのジョナサン』 リチャード・バック 1970

出版後数年でアメリカで1500万部の史上最大のベストセラーとなり、日本でも1974年に翻訳されて話題になった作品。世界中でヒットしたというものの、日本での当時の販売部数が120万部というから、アメリカほどには受けなかったのだろう。翻訳者の五木寛之があとがきに書きつけた違和感が、その事情を説明している気がする。

翻訳当時、僕は中学校一年生だったから、社会現象ともいえるようなブームを覚えているし、この本の書名は頭にこびりついている。だから、読書会の課題図書になってようやくこの本が読めたのはうれしいし、選者には感謝したい。

ただ、出版後50年が経った今の時点でこの本が広く読まれるような条件は、日本ではもちろん、本国のアメリカにおいても失われているような気がする。

一つには、この本が体現する思想が、ストレートに「宗教的」なことだ。不十分で不安定な自己を超えて無限の境地にいたり、自己を完成させるという思想の骨格は、伝統的な宗教といっていい。そのための方法が個人主義的な練習(修行)であり、社会のルールを捨て去って「自由」を目指すというあたりには、当時の若者文化の思潮(ミーイズム)が見え隠れする。両者の適度な混合が、当時のアメリカの主流の人々にも受け入れられたのだろう。

一方、五木寛之は、このあからさまな宗教的世界観と、集団生活(群れ)の日常生活(食と性)を見下すジョナサンのエリート主義等に反発を感じているが、50年後の日本の現状肯定的な思想風土とは、いっそうそりが合わないにちがいない。

さらにいえば、命あるものを人間と対等と受け取るような感覚とそのための知識は、この半世紀ですいぶん浸透してきたのではないか。自然を主体とみなすエコロジー生態学)が流行したのも、1980年代以降のことだ。

この本がカモメを主人公の寓話(たとえ話)を語るのはいいとしても、実際のカモメの生態についての敬意やそれを知ろうとする意欲も感じられないのは、どうだろうか。いったい本物のカモメの大量の写真は何を意味しているのだろう。これを寓話の挿絵として使うのは、自然への冒涜ではないかという気さえする。

実際のカモメの精妙な生態や飛行技術は、そのままで完成された無限を実践していると言える。同じ海鳥であるオオソリハシシギは、アラスカからニュージーランドまでの一万二千キロを11日間不休で飛ぶという。玄界灘の浜辺で羽を休める小柄なオオソリハシシギに出会ったときの感動は忘れがたい。

生活に不足や不満をもち理想や目的を掲げざるを得ず、動物の世界にさえそんな価値観を持ち込んでしまう人間のほうが、むしろ歪んだ欠陥動物なのではないかと考えさせられる作品。