大井川通信

大井川あたりの事ども

みてみて、おにく、やけた

近くの商業施設の休憩用のスペースに立ち寄ると、テーブルを囲んで、若いお母さんたちが、食事とおしゃべりをしている。窓際のガラスには、大きな観葉植物が置いてあるのだが、二歳か三歳くらいの女の子が二人、鉢の前にちょこんと並んで正座している。鉢の中には、5センチくらいの茶色の木片が敷き詰めてあって、彼女たちは、それを取り出して、自分の脱いだ靴の中に詰めているのだ。何をするつもりだろう?

次に女の子たちは、その木片入りの靴を、お母さんたちが話しているテーブルの下まで運んで、車輪を取り付けたスチールの横棒の上に端からていねいに並べていく。木片の運搬を何度かくりかえして、やっと満足のいくようになったのか、お母さんたちに向かって、「みてみて、おにく、やけた」と笑顔で声をかけた。

なるほど、こげ茶の木片は、肉の塊のようだ。脱いだ靴はお皿で、スチールの横棒は鉄板というわけなのだ。やっと二語文が喋れるくらいの幼児なのだが、複雑な見立てを自分たちで考えて二人でごっこ遊びをした上に、お母さんに自慢するとは、たいしたものだと感心する。

お母さんたちは、お開きのころ合いなのか、「もうおしまいよ」と女の子たちに言って、片づけさせる。子どもたちの遊びは、はたから見ても許容範囲だったので、靴を脱いだり木片をいじったりすることに神経質にならずに、自由に遊ばせているお母さんたちにはむしろ好感をもった。

しかし、女の子たちの遊びを成立させたのは、親の寛容さというより、高さ70センチのテーブルの上下で、大人と子どもがうまく棲み分けできていたからかもしれない。大人たちは、テーブルの上の会話に夢中で、テーブルの下の死角で、おとなしく子どもが遊んでいる内容まで気づかなかったのだろう。

宅老所よりあいの村瀬さんが、だいたいこんな話をしていたことを思い出す。フローリングとテーブルの生活では、テーブルの下の空間が無駄になってしまう。足腰の弱くなったお年寄りがなじめるのは、畳とちゃぶ台がつくる空間なのだと。それは、幼児が生き生きと遊ぶ空間と共通なのかもしれない。

ホームとアウェイ

とても優秀な教員の友人がいる。教員仲間でも広く彼の力は知られているが、教師でない僕のような人間が話していても、彼の力が群を抜いているのはわかる。他の先生たちとどこが違うのだろう。ずっとそれを考えていた。

先生は、どちらかというと内弁慶の人が多い。仕事熱心の先生でも、学級や学校が大好きで、研究も仲間内で行いがちだ。その優秀な友人は、外に出向くのをいとわない。積極的にあたらしい環境で自分を試そうとする。そういう姿勢の違いを、ホームとアウェイという言葉で説明できるのに、最近気づいた。

アウェイは、ふだん自分がなじんでいるホームでの習慣や惰性が通用しない。アウェイにでるからこそ、人は驚き、問いを立て、それと解こうとする姿勢が生まれる。いったんその環境になれてしまえば、あらたなアウェイを求めて外に出るから、さらに思考の経験が積まれることになる。

こんな風にして、ホーム志向の他の教員と、優秀な友人との力の差が説明できるのだが、それが教員としての力の差に直結するのは、なぜなのか。それは、学校で子どもたちに、アウェイである社会に出ても通用する力を身に着けさせる必要が、いっそう高まっているからだ。変化が激しい世界の中で、自分で考えて生き抜く力を、ホームでぬくぬくとしている教員が教えることはできないだろう。

だから、若い教師たちにアドバイスすべきなのは、常に学び続けるという抽象的な言葉ではなく、自分にとってアウェイの場所をみつけて飛び込む姿勢と工夫ということになる。友人も、そんな僕の結論に同意してくれた。

しかし、話はここでおわらない。宅老所よりあいの村瀬さんの話では、お年寄りは、住み慣れた家を離れるリロケーションギャップによってダメージを受け、その人らしさを失ってしまうという。ホームをはなれアウェイに飛び込む、というのは、あくまで強者の論理であり、人生の上り坂の時にのみ可能な態度なのだ。人間は最後には、ホームに血肉化した自分を頼みの綱とするしかなくなるのだろう。

友人は、今春、学校を離れて、東京で学者としての道をあらたに歩み始める。せっかく研究に人生をささげるのなら、上り坂も下り坂も含めて、人生をトータルにとらえられるような豊かな学びのメージをつかみとってほしいと思う。今週末、最後に彼と話すときには、そういう話をしてみたい。

 

大井川歩きで山城に登る

穏やかな日差しに誘われて、久しぶりに大井川歩き。天候やら用事やらで地元を歩くのはだいぶ間があいてしまった。歩くとまちがいなく楽しくいろいろ発見もあるので、これからはできるだけ毎週歩こうと、あらためて思った。

ダムで見慣れぬ大きな水鳥をみつけ、スケッチするが、あとでありふれたカワウであることに気付く。やはりだいぶカンが鈍っている。カモ類やバンやカイツブリが、広い水面で日向ぼっこ。平和な風景だ。大井の枝村を過ぎて、冠(かむり)という山あいの集落を目指す。途中、ウォーキングの二人連れと、畑仕事のおじさんと挨拶。天気がいいことを一言添える。しかし、それ以上話題は振れず。カンがやはり鈍っているか。

冠には、中世の山城跡と熊野神社がある。ロープにつかまって急な山道を登る。頂上付近で、熊野神社を開いた法師が入定した(生き仏となった)場所という説明板がある。このため、後に弥勒山とも呼ばれたそうだ。大井の里山にもミロク様の石祠がまつられている。宮田登の『ミロク信仰の研究』が読みかけだったのを、思い出す。標高160メートルばかりの狭い頂上は、三方が切り立った斜面であり、尾根伝いは「堀切」を掘って守られていて、いかにも山城にふさわしいロケーションだ。ここからは海と島々が見渡せる。振り返ると、我が家の方向の街並みが遠望できる。

熊野神社では、ウォーキングのおばさんと話をする。地元ではなく隣町の住宅街の人だったが、四国の松山や小倉を経て、この土地に来たそうだ。近辺の見どころの情報交換をする。神社の鳥居は、古い鳥居をコンクリと鉄筋でおおって補強したものだが、18世紀初めの「元文」の年号が刻みなおしてある。昨夏から始めた元号ビンゴの観点では、初出のものだ。

隣接して開発された県営住宅との境に、「千鳥様」のホコラがある。熊野神社の神官だった姫が、恋に破れて身を投げたという言い伝えがあるのだそうだ。我が身を犠牲にして仏となった高僧の伝説と、悲恋のお姫様の伝説。映画も小説もなかった時代の人々にとっては、教訓や娯楽として貴重な物語だったのではないのか。てくてく坂を下りながら、そんなことを考える。この反芻する時間が大井川歩きの妙味。

庭先の紅白の梅が美しい。電線にホオジロが止まるが、まださえずりは聞かれない。ほの暗いやぶの中に、黄色いミカンがなっているのかとおもったら、目元の黒いアオジの丸いお腹だった。

人は必ず死ぬものだ、と村瀬さんは言った

30年間、介護の仕事で老いとむきあって、わかったことは、と村瀬さんは口を開く。

人は自分の思い通りにならない、ということです。そうして、人は必ず死にます。死ぬ前に人は、時間と空間の見当を失いがちになる。しかし、人間は自分の住み慣れた建物を血肉化しているから、なんとか見当をつけて暮らすことができるのです。

だから、ついの住処をもてずに、お年寄りをたらいまわしにする今の社会の仕組みは、お年寄りに深刻なダメージを与えるという。住み替えには、お年寄りに周囲の人がつきあう必要があるし、人がつきあえる場所が必要なのだと。それがあってはじめてお年寄りのその人らしさが持続できる、と村瀬さんは語る。

村瀬さんの言葉には、人間というものとその生活の根元への洞察と知恵が凝縮されているように感じられた。ぼけの世界を、現代の医療は認知症という病気として扱う。しかし、村瀬さんはそれを老化や老衰の過程における、時や場所の感覚の混乱としてとらえるのだ。そうした混乱なら、僕たちにも多少は思い当ることがあるはずだし、混乱を収めるのが、今ある暮らしの連続であることも理解できるように思える。

村瀬さんは、死を迎えた人の看取りに関する、こんなエピソードを話してくれた。泊りがけで看取る家族に対して、あるおばあさんが5分おきに、あなたお腹すいてないの、と声をかけるのだという。そうすると別のおばあさんが、あなたそれさっき聞いたばかりじゃない、ととがめる。すると二人のいさかいを注意するおばあさんが出て来る。この同じ三人のやり取りが、5分ごとに繰り返されるのだ。しかし、看取りをする家族は、そんなやり取りにずいぶんと励まされたのだそうだ。

みんな笑った。いい話だと思う。とくに僕には、他人事としてでなく、笑うことができる事情がある。かつて「一過性全健忘」という「症状」を経験したことがあるからだ。その時には、僕も、数分置きに同じ質問を何度も繰り返していたそうだ。ただ残念ながら、その数時間の記憶は全く失われている。調べると、別にそれほど珍しい症状ではないらしい。数分間の短い記憶を、より長持ちする記憶に送り込むギアが、何かの調子で一時入らなくなってしまったようだ。そういうことが、まだ若いうちに人生で何度か起きる人がすくなからずいる。そう納得して、僕はあまり心配せずに、その「症状」を受けとめることができた。

ぼけ、ということも、きっとそうした失調の延長線上にあるのだろう。ただ、それを当たり前のこととして受け入れる人の存在と暮らしの場所が、何より大切なのだろう。

 

宅老所よりあい代表の村瀬孝生さんの話を聞く

2年ほど前、特別養護老人ホーム「よりあいの森」をグループで見学して、村瀬孝生さんから説明を受けたことがある。その時は、穏やかでたんたんとしていながら核心を突く語りに強い印象を受けた。著書にサインをいただいたりしたけれども、不勉強の僕は数冊を積読したままだった。

今回、建築家たちの勉強会に村瀬さんが招かれて講演とシンポジウムをするというので、一般で参加してみた。今度こそしっかり著作を読んで、学んだり自分なりに考えたりしてみようと思う。ただ、小さな会場で間近に接した村瀬さんの佇まいが、前回以上に、あまりに不思議な印象だったので、あてずっぽうになるだろうが、とりあえず書き留めておきたい。

たんたんとして全くてらいや気負いが感じられない。言葉少なでも饒舌でもない。適切な言葉数で、実に的確で深い内容を話すのだが、力が入りすぎてもいなければ、まったく肩の力が抜けているというわけでもない。なんというか、まるで「自我」というものが感じられないのだ。

シンポジウムの部になって、他の人が発言しているときの村瀬さんは、無表情というか、まるでとらえどころのない呆けた人のような顔をしている。多くの知識人が示すような、相手の意見に同意したり反発したり、あるいは無関心を示して自分の考えに集中したりする、自我むき出しの態度とは異質だ。

白土三平の忍者漫画で、主人公の剣客が強敵を相手にした時、自分で意識を無くす自己催眠をかけたために、表情から全く手の内が読めなくなり、敵が手も足も出せずに自滅してしまう、という話があったが、そんなとらえどころのない表情なのだ。宅老所よりあいの思想と実践は画期的で独自だが、それ以上に村瀬さんの存在そのものが特別なのかもしれない。

村瀬さんは「看取り」という形で、医学による処方や宗教による解釈と離れて、人間の死そのものと向き合ってきた。また、現代の社会が、人間の死や老化を不当に扱ったり、隠蔽したりする制度の仕組みを知悉して、それを別の方向に組みかえる実践を行ってきた。つまり、本来の宗教家や哲学者や社会改革者が行うべき事柄を、介護の現場で生身で担ってきたのだ。おそらく人間というものの真相に、誰よりも通じてしまったのだろう。せせこましい「自我」など、とうに突き抜けているのかもしれない。

 

 

ooigawa1212.hatenablog.com

 

『正しい本の読み方』 橋爪大三郎 2017

新刊の時には、手にとって買わなかった本だが、今回必要があって読むことになった。橋爪大三郎の本だから、もちろん間違ったところなどなくて、広い視野から様々に示唆的なことが、わかりやすく書かれている。その内容は一目瞭然だ。

にもかかわらず、この現役感の無さ、というか、時代からズレた感じはいったいなんだろう。違和感をもたらすのは、たとえば「必ず読むべき『大著者100人』リスト」なるものだ。プラトンアリストテレスから始まって、デリダルーマンまで。著者が「読み方」を伝授したい対象が、このリストをすべて「必ず」読みこなせるような人間だというのなら、新書の読者層には皆無だろうというしかない。

著者の学生時代(つまり半世紀前!)によく読まれていたマルクスレヴィ・ストロースが、現在の読者の予備知識の有無など問答無用で引用される。著者が漠然とターゲットにしているのは、人文系の研究者の卵たちだろうが、彼らが果たしてこういう入門書を必要としているのか疑問に感じる。人文系の知にあこがれをもつような人間は、ほっておいても自分で本を読むだろう。

僕の経験では、今、情報を読み解き、世界の意味について考え、社会を変えようとしている優秀な若い世代は確実に増加している。彼らは当然ながら、マルクス構造主義とも無縁である。そういう知的に誠実で実践的な層に対してこそ、年長世代の研究者から、本という伝統的なメディアの読み方の指南が必要だし、それが時代的に意味を持つ。しかし、そんなことは著者の視野には入っていないようだ。彼らにこの本を勧めることは、僕にはとてもできない。

ただ、それも無理からぬことだろう。橋爪さんにしたって、もう70歳なのだ。加藤典洋も同年齢だ。いつまでも彼らに教えを請おうという編集者や読者の側の依存体質の方がむしろ問題なのだと思う。

もちろん彼らの仕事や発言に相応の意義があることを否定するつもりはない。ただ時代の中心的な問題に切り込めるのは、かつて80年代、90年代の彼ら自身がそうであったように、せいぜい30代、40代の現役の思考者なのだと思う。

僕はかつて、1991年に出版された著者の論文集『現代思想はいま何を考えればよいのか』に目を開かされた。そこで、著者は、きらびやかな現代思想ブームの終わりに、思想がいま喫緊に何を論じる必要があるのかを鮮やかに取り出して見せた。今の時代、何をどう読む必要があるのか、大胆に絞り込んだ本が読みたい。

クルマの恐怖

地方都市で、転勤の多い仕事なので、実際に車でしか通勤できない職場に通うことが多い。中央分離帯なんてもののない狭い道を高速で走ると、トラックや自家用車が次々にすれ違っていく。時々、そのどれか一台がわずかにハンドル操作を誤るだけで、正面衝突の事故となり、即死かひん死の重傷を負うのは間違いないと考えると、背筋が寒くなる。

人間なんてうっかりして間違えるのが専門のような生き物だ。毎日往復2時間の間にどれだけの数の車とすれ違うだろう。それを何年、何十年。その膨大な数のすれちがうドライバーの中に、うっかり者やテレビやスマホの画面に気を取られた者や体調が急変して意識を失った者が紛れ込んでいない、と考えるほうが不自然で無理な話だろう。

人は病気になることや将来の生活の不安についていつも口にする。それらはあくまで将来の可能性の問題だ。しかし、すれちがう一台一台の車は、具体的で現在の差し迫った危険そのものなのだ。一台一台が、死神だ、といっても大袈裟ではなく、単なる事実の記述だろう。しかし、この事実は、なぜかほとんど口にされることがない。『クルマを捨ててこそ地方は蘇る』は、もっと穏やかな口調だけれども、この問題にきちっと触れていて、共感できた。

たとえば、病気になっても近代的な医学に基づく治療を受けられずに、神頼みか民間療法しかなかった昔の生活を想像することは、現代人には難しい。それと同じく、近い将来自動運転技術が実用化された後の時代の人々は、こんな恐ろしく危険な作業を人間に平気で任せていた野蛮な時代は想像ができない、と振り返るような気がする。

『クルマを捨ててこそ地方は蘇る』 藤井聡 2017

クルマ社会の問題点を、網羅的に、かんで含めるようにわかりやすく説いた本。視野の広さと分析のバランスの良さは、驚くほどだ。とくに地方都市において、人々のクルマ依存が、郊外化をもたらし、結果的に地域の劣化と人口流出をもたらすメカニズムを、あらゆる要因と因果関係にあたって説明しているのは見事だ。だからこそ、クルマ利用を抑えることで、地方を疲弊から救う道筋を、説得力をもって描き出すことができるのだろう。富山市京都市での事例の解説もわかりやすい。

大井川歩きは、自宅から歩ける範囲内の土地にかかわろう、という漠然とした思い付きにすぎないけれども、この本には、その利点を明確に説いている部分がある。クルマ依存者は、「鳥や虫の鳴き声を聞くこと」「道ばたに咲く花や土など、自然のにおいをかぐこと」「地域の人々と挨拶や話をする機会」が少ないことが統計的に示されている。触れるものを好きになるという「単純接触効果」から、クルマに依存しない者は「地域愛着」が強くなるが、反対にクルマ依存によって、地域愛着が薄くなり、コミュニティと自治は劣化してしまうことになる。著者の目線は、こんなささいな論点にまで及んでいるのだ。

著者は京都のラジオ局で、「交通まちづくりマーケティング(モビリティ・マネジメント)」の視点で、クルマ利用の見直しを発信する番組作りを何年もてがけている。一般の視聴者に理解しやすい問題点を明確なデータを示しながら伝える、という長年の取り組みが、この本の緻密さと分かりやすさにつながっているのだろう。

自動車産業や大型ショッピングセンター等の巨大な民間資本の論理によって、モータリゼーションと郊外化による地方の疲弊が進行してきた。それに対して、地方政府は大きなハンデを背負ってゲリラ戦を強いられている、という著者が示す構図は、新鮮で納得のいくものだ。このような状況では、自治体頼みの住民の姿勢は、事態を改善する役にはたたないだろう。地域の問題を文字通り「足元」から考えるうえで、バイブルとなりうる本だ。

春一番とガビチョウ

昼間、車道の脇を歩いていたら、ボヤっと赤いものがゆっくり飛んできてズボンに止まる。のぞきこむと、ナナホシテントウだった。手に取ると、思ったよりはるかに小さい。ただ暖かい日差しを受けて、濡れたように光っている。指を立てると先端まで登って飛び立つ習性があると思っていたので、しばらく横断中みたいに手を挙げて歩いてみたのだが、いっこうに飛ばないので、道端の草の上に置く。

途中、駐車場で、猿回しのおじさんが稽古をしていて、ときどき無造作に猿の頭をこつんとたたいたりしている。(虐待にならないのだろうか)

何日か前に、この地方に春一番が吹いた。いつの間にか、土色の畑が芽吹き、一面に黄緑の筋が広がっている。黄蝶が一匹、飛ぶ姿を見かける。

知人から、鳥の鳴き声を問い合わせるメールが届く。日中やぶの中で、様々な音色で騒がしく鳴くガビチョウだ。昔、大井村の原田さんからも、春になると大声で鳴くその鳥の正体を聞かれたことがある。(原田さんは当時、明け方に新聞配達をしていたので、朝うるさくて眠れないと嘆いていた)

ガビチョウの目の周りは、白いペンキで数字の6(ただし横向き)を描いたみたいになっている。あの数字の眼鏡ごしに、春ははっきり見えているのだろう。

事ども、のこと

このブログの説明に、大井川あたりの事ども、と書いている。大井川と言っても、あの大井川ではなく、ネットの検索でも出てこないような、小さな河川の支流のことだ。そのあたりの事ども。しかし、事など、でいいところ、なぜこんな気取った言い回しをしてしまうのか。これには、小学校で刻印された原体験がある。

小学校高学年での同級生に、S君がいた。彼は本当の秀才で、並の優等生だった僕には脅威だった。宿題が終わってやることがない、と言った僕に、勉強することはいくらでも自分で見つけられるんだよ、と彼が諭してくれた言葉は、ずっと耳に残っている。彼は名門の私立中学に進学したのだが、彼が小学校の卒業文集に残した文の題名が、たしか「校舎のことども」だったのだ。建て替えられた木造校舎の思い出をつづったものだが、僕たちは「ことども」という聞いたこともない言葉に強い衝撃を受けた。

もうだいぶ前だが、その時の級友の一人のブログの表題に、「ことども」が使ってあるのを見つけ、ひそかに共感した。彼もおそらく僕と同じように、S君へのコンプレックスを長く持ち続けているのだろう。

ところで、その卒業文集に、僕は、自宅の裏の原っぱでコウモリを見つけたエピソードをのせている。ほぼ全員が、修学旅行などの思い出を書いている中で、学校生活とまったく関係ない身辺雑記を書いていたのだ。今思えば、すでに「積極奇異」ぶりを見せていたのだろう。

S君は今でもなぜか、僕の誕生日にきまって電話をくれたりする。もしかしたら、彼のほうでも僕の発揮していた「積極奇異」の行方が、多少気になっているのかもしれない。