大井川通信

大井川あたりの事ども

「とはすかたり-学舎の肖像-」 鈴木淳 ×AQAプロジェクト 2019

僕の実家は、某国立大学の近所にあったから、うっそうと樹々の茂ったキャンパスを遊び場にして育った。林の中や芝生の上には、学者たちの古びた半身像や全身像があって、その台座の周囲をぐるぐると走りまわった。彼らが生前どんな人物だったかなどとは、考えたこともない。今でもたまに散歩で寄ると、彼らは決められた場所を一歩も動かず、同じ姿勢で胸をはっている。

鈴木淳さんの新しい作品が、九大の昔の学者の肖像画を使って、現役の教授たちが架空のインタビューをする映像だと知ったときに、あの銅像たちのことを思い出した。鈴木さんは、物言わぬ彼らにどんなふうに命を吹き込むのか。しかし、移転後の解体が進む九大箱崎キャンパスの会場を訪れると、作品のねらいはそこにはないことを思い知った。

展示室は二つあって、奥の部屋は、いくつかのモニターで現役の学者たちが自分の研究テーマや研究上の貴重な「もの」について語っている。ものの実物は陳列ケースに展示され、ケース上には学者たちの話がすべてひらがなで書き起こされた紙が置かれている。この奇妙な紙以外は、学者たちの研究のルーツやその多彩さが感じられる展示にすぎない。

しかし、手前の部屋に足を踏み入れると、様子はがわりと変わる。薄暗い部屋の真ん中には古びた椅子が積み上げられ、その周囲には、印字された紙テープが、大量にたらされている。巻き付けられた電飾が明滅して、あちこちに設置されたモニターが、例のインタビュー映像を流している。

しかし、意外にも、学者たちが先人の肖像画や研究資料に向かってインタビューする音声は打ち消しあい、部屋全体に騒然と反響して、まったく聞き取ることができないのだ。鈴木さんにとって、肖像が誰であるか、現役の学者たちがそれぞれどんな内容のインタビューをしているかは、関心の外なのだろう。

奥の部屋の展示では読むことのできた学者たちの話が、ばらばらの紙テープに印字された読解不能の言葉の洪水に置き換えられていることからも、それがわかる。美術家が見つめるのは、意味ではなく、意味を抜き取ったあとに残る形式やイメージなのだ。

考えてみれば、大学という学び舎で行われていることは、先人の研究業績と対話したり、研究資料とひたすら向き合ったりしながら、論理の言葉を際限なく紡いでいくというものではなかったか。だとしたら、鈴木さんが演出した学者たちのインタビューは、けっして奇矯なものではなく、大学における日常を映像化したものになる。

しかしこれは現代の主流の研究スタイルではないだろう。この展示が、その筋からは不要論さえ飛び出している文学部が中心となった企画であることに思いいたる。

鈴木さんが再現した学問の塔は、どこか妖しく、崩壊の過程にあるバベルの塔のようだ。それは、広大な新キャンパスで時代の脚光をあびる象牙の塔」への暗黙の批評となっているようにも思えた。