大井川通信

大井川あたりの事ども

キャベツ論 ― 齋藤秀三郎さんのキャベツに寄せて

 

キャベツをくるむ葉の一枚、一枚の、支脈と隆起がつくりだす無限の複雑さ。

キャベツの葉がくるむキャベツは、しかし、無数のキャベツの葉によって構成されているから、キャベツの実体とは、実は、当のキャベツがくるむキャベツの葉そのものである。

一枚一枚のキャベツの葉が、固有の表情を見せているように、キャベツの実体であるところの、無数のキャベツの葉の連なりも、そのキャベツ特有の、唯一無比の組み合わせであるに違いない。

私はキャベツを食べる。キャベツの実体であるところの、キャベツの葉の無限の連なりは、一様に千切りされたのち、私の歯によって等しくすりつぶされて、一切の固有性と一回性と無限に複雑な情報を奪われて、今朝のサラダの美味さとして、一個の単純な食材として私に消費される。そこで一個のキャベツの一切の可能性は、回復不能な思い出となる。あの支脈の繊細にして優美な曲線。あの広々と力強い隆起。表面をこする、きゅっきゅっ、という音。ごわごわと、またぱりぱりと奏でる葉をむしる音。それら全てが、世界中のどの産地の、いかなる季節のキャベツによっても置き換えることのできない、微細なその何かが、永久に失われるのだ。

しかし、私は、世界中の、あらゆる季節のキャベツとともに、その思い出に頓着しない。日々私の食卓に運ばれる無数のキャベツ。その葉の一枚一枚を無心に食べ続けることにおいて、私は一切の後悔と悲運と自慰の観念から解放される。

そうして、私はキャベツになる。キャベツの葉によってくるまれる、キャベツの実体であるところの、無限に複雑なキャベツの葉の連なりは、同時に私のものにも、私たちのものにも、そうしてこの時代、あるいはあらゆる時代のものとなる。

ここにいたって、一個のキャベツもしくは無数のキャベツは、ようやくそれぞれの食卓から立ち上がり、以後、私たちの歩行を開始する。