昔から「胡蝶(こちょう)の夢」型というか、「邯鄲(かんたん)の枕」型というか、要するに今でいう「夢オチ」の物語が好きだった。
芥川の『杜子春』のようにそれがハッピーエンドに終わるのも悪くないが、死に臨んでみる夢という設定の意外性と悲劇性の組み合わせに心惹かれていたと思う。
記憶をさかのぼると、手塚治虫の短編『生けにえ』に行き当たる。マヤ帝国の少女が神への生贄として首をはねられる直前、神への願いが聞き届けられて、二千年後の日本で10年間の平凡な家庭生活を送るという「夢」を見ることになる。短編集『ザ・クレーター』(1970)で、小学生の時に読み、子ども心にせつなくて強く印象に残った。この本は他にも名作ぞろいだけれども。
以下すべてネタバレとなってしまうが、映画では『ジェイコブズ・ラダー』(1990)が当時話題にもなり、僕にもとても面白かった。昨年リメイクされて、今年日本でも公開されたようだ。さほど有名でない『リプレイ(原題 THE I INSIDE)』(2002)や『ステイ』(2006)も、この種のパターンが好きな僕にはたまらなく、特に後者は映画として非常に優れていると思う。
そこで標題の『アウル・クリーク橋の一事件』だが、このパターンの古典的名作で、大学時代に読んだ。文庫本で20頁にみたない短編だが、オチが分かっていても読み返して面白い。その理由は描写の迫真性だ。
南北戦争のさなか、橋の上で絞首刑を待つ民間人の耳に、徐々に間隔をあけて、鋭く強い音が響く。気づくと、それが懐中時計の音だったという描写。ひもが切れて命拾いし水中に落下した彼の目に、川岸の木々の一枚一枚の葉までが見えたという描写。
どちらも死に臨んで異様に研ぎ澄まされた知覚を見事にとらえている。だから、読者は一連の描写を一続きの現実と受け取らざるを得ないのだ。
命からがら川を脱出した主人公は、森の中を自宅へと急ぐ。ここからの描写は、妙に抽象的でリアリティを欠き、終局への巧みな伏線となっている。
「樹々の黒々とした幹が、路の両側に真直ぐな壁をなし、遠近画法の練習でえがく作図のように、地平線上で一点となって終っていた」