ビアスといえば、短編の名手サキ(1870-1916)の名前を連想したので、この機会にサキの短編も読んでみることにした。文庫本は5年ばかり前に手に入れていた。
21編の収録作品の内、心に引っかかったのは三分の一弱。おそらく文化や時代背景の違いのせいでピンとこないものも多いだろう。ざっと目を通した感じでは、僕とはあまり相性のいい作家ではないのかもしれない。唯一、再読の誘惑にかられたのが、「七番目の若鳥」という短編だった。
主人公の関心事は、同じ汽車の通勤仲間の話題の中心を占めることだ。自分の生活における事実では、なかなか彼らの気をひくことができない。友人のアドバイスに従い、「創作」した話によって一座の重要人物となる。
「いちど踏みきる勇気さえあれば、堕落とはいかに安全で容易なものであるかを、悟りはじめていた」
彼はライバルに上回るために、創作を重ね、作り話の名人と目されるようになる。そのため彼の家族に本当の悲劇が訪れたときに、それを誰も本当の話とは受け取ってくれなかった。この出来事をきっかけに、彼はいつもの通勤仲間と別れ、注目を浴びるための創作もやめてしまう。
この小説は、「虚構」がいかに誕生するか、を端的に描いている。まず初めに、人々に面白い話を聞かせて賞賛をえることの欲望がある。話によって他者の承認を得るという欲望はばかにならない。それが全ての創作を支える土台なのだ。この土台の上で、事実を語ることは、容易に話を「盛る」ことへとつながり、絶えざる「創作」へと飛翔(あるいは堕落)する。
ところで、中島敦の『狐憑』(1942)では、未開社会において、近代社会とは別のベクトルで「創作」を生まれるプロセスが示されていた。他者の霊が乗り移る「憑き物」によって無意識に「うわごと」を語るようになった主人公は、しだいに様々な「空想物語」を多くの人に聞かせるようになる。やがて彼の創作が社会の秩序に背くようになると、権力者たちは彼を排斥してしまう。
創作というものが、個人の生活から生み出されるにしろ、あるいは神の言葉から生まれるものにしろ、いずれにしろそこにはある飛躍や分離という特別なきっかけが必要であるに違いない。