大井川通信

大井川あたりの事ども

試練はつづくよ どこまでも

今年の3月には左ひざ、8月には右足首を痛めて、整形外科に駆け込んだ。軽いぎっくり腰や首のねちがえで整骨院に頼るのは定期的なことだが、足の痛みで歩けなくなるのは今までなかった気がする。

10日ばかり前に数日間集中的に歩いたあとに同じ左ひざが痛くなった。塗り薬と市販のサポーターをつけてしのいだら、4,5日で痛みがひいた。するとこんどは右足首のアキレス腱が痛くなって、足をひきずるようになる。

幸い外傷はなく、医者は前回同様、歩きすぎが理由だという。しかし、歩くのは健康にいいといいませんか。それは健康な人、あなたのような人はあまり歩いたらいけない。医者はそういって、レントゲンで、アキレス腱の付け根の部分が骨化して小さなトゲのようなもの(骨棘)ができていることを見せる。

前回は聞き流していたが、これは本気で対策を立てないといけないようだ。本当に歩けなくなってしまったら、大井川歩きどころではなくなる。ライフワークがかすんでいく。

整形外科へいく途中の交差点の信号待ちで、反対側の歩道で下校中の小学生が集まって一人をいじめているのを見つける。歩道に倒して、数人が取り囲んで蹴りを入れている。そのあと襟首をつかんで引きずられていく。やられている子どもの顔は、笑っているようにも歪んでいるようにも見えた。こちらから声も届かないので、とっさに何枚か写真をとる。帰り近くの学校によって、先生に対処をお願いした。

自宅に戻ると、妻がスーパーで知り合いから仕入れた情報を教えてくれる。隣家のご主人が、盗撮で逮捕された記事が、実名入りで地元の新聞にのったそうだ。二人の子どもに夜遅くまで野球のバッティング練習をさせる姿をよく見かけた。子どもたちにとっては、厳しいけれども頼もしい父親だったのだろう。

職場の女子トイレにビデオカメラを置いていたらしい。そういえば近所でのぞきのうわさもあったし、我が家の浴室でも不自然に窓が開けられていたことがあったね、という話になる。

家族を車で送り迎えするために足を引きずって外に出ると、冷え冷えとした夜の住宅街で、隣家は暗く人気がなかった。

 

 

 

尾畠春夫さんのこと

山口県周防大島で行方不明の二歳児を単身発見したことから名をあげた「スーパーボランティア」尾畠さんのインタビューを読んだ。

尾畠さんの経歴や考え方に触れると、かろうじて理解や共感はできるけれども、及び難いというか、別の世界の人間であり出来事であるという気がする。「ボランティア」という言葉は、尾畠さんを一般の人々に広く伝える上では役にたったが、かえって彼の本質を押し隠してしまっているような気がする。

尾畠さんの経歴をみてみよう。

昭和14年(1939年)に大分県の下駄を製造販売する家に生まれる。小学校5年生で母親が亡くなり、農家に奉公に出される。農作業の手伝いでほとんど中学にはいっていない。中学卒業後別府の魚屋で3年間奉公。このとき姉の忠告で魚屋の店を持つことを決め、10年での独立を計画する。この目的のために下関でフグの勉強のために3年間働き、商売の勉強をしようと本場関西の魚屋で4年間勤める。この時「男の修行場」(歓楽街?)で生き方を学ぶ。

予定の10年間魚の修行したが、開店資金を稼ぐために、オリンピック景気にわく東京で3年間とび職の仕事をする。別府に戻って別府の魚屋時代に心に決めていた相手と結婚し、ミキサー運転の仕事を1年したあと待望の魚屋を開業したのが昭和43年(1968年)29歳の時だった。

15歳から50年働いたらやりたいことをすると決めていたので、平成16年(2004年)65歳の時に店を閉める。長年の夢である徒歩での日本縦断、九州一周、四国遍路、北アルプス55山単独縦走に挑戦する。また、商売でお世話になった世間様に対して恩返しをしたいとボランティアを始める。車で寝泊まりして自前で生活し、対価を受け取らない。貯金はなく、5万5千円の年金だけで生活費をまかなう。マスコミで注目されたのはこのあたりの事だ。

尾畠さんの行動を貫いているのは、徹底した互酬性、恩返しの原理だ。ボランティアは長年魚を買ってくれた世間への恩返し。東北や広島の被災地に駆けつけたのは、日本縦断の時、各地域で親切にもてなしてくれた知人の安否を気遣ってのことだ。文字通り、一宿一飯の恩に報いようというわけである。これは古くから庶民の生活にしみ込んだ原理だろう。

尾畠さんにはもう一つの行動原理がある。夢や目標をかかげ、そのために計画し、こつこつと努力し、実現するという原理だ。ボランティアも、そうした挑戦の一環なのである。尾畠さんの自宅には、自分を律して鼓舞するようなたくさんの標語が張られている。こちらは、戦後的な原理という気がする。高度成長によって確実に豊かになり、庶民の夢の実現の後押しをした戦後社会がその背景にあるだろう。

互酬原理と挑戦原理とのアマルガムである尾畠さんは、吉本隆明が想定する「大衆の原像」、つまり自分の生活や子育ての内側に自足する存在、とはだいぶイメージが違う。しかし、戦後社会を生き抜いた庶民の一つの見事な典型であり、理想像である気がする。市場原理が浸透し、戦後的な価値観が崩れた現代には、もう彼のような人間が現れる余地はないだろうが。

78歳の尾畠さんは、ボランティアをする体力が無くなったら、夜間の定時制高校に通い勉強するのが夢だという。彼のことだから、きっとそれも見事に実現してしまうにちがいない。

 ※記事作成後に、参照したインタビュー本が出版に際し尾畠さんとトラブルがあったことを知ったので、書名はふせた。

 

 

筑豊富士再訪

免許の更新で筑豊の運転免許試験場に出かける。筑豊の象徴ともいえる三連のボタ山(別名筑豊富士)のすぐ近くだ。講習の待ち時間が一時間ばかりあるので、気ままに歩くことにした。

遠目には見てきたが、実際にふもとを歩くのは、初訪以来10年ぶりくらいになる。当時、夢中になって、遠方の炭鉱跡を見て回っていた。ある時から、もっと身の回りに目を向けようと考えて、そういうことをしなくなったのだ。

まず、亀屋延永本店で、羊羹の黒ダイヤと白ダイヤを買う。筑豊で採れる石炭と石灰をモチーフにした銘菓だ。かつての労働者の街では、お菓子の名店が多い。

ボタ山のふもとをめぐる小道に入ると、住宅街の中にレンガ積みの赤茶色い遺構が見えてくる。斜坑でトロッコを上げ下げするワイヤーを巻き上げる機械を据えた台座だ。頑丈に作ってあるから、閉山で坑口が埋め戻されたあとでも残されているケースが多い。新しいものではコンクリート製になる。掘り出された石炭は、選炭機で分別されて、不要なボタが捨てられて、高さ100メートルを超えるボタ山となったのだ。

ボタ山はすでに緑の木々におおわれていて、ふつうの小山と変わらない。注意深く見ると、斜めに伸びる稜線が定規を当てたような直線であることに気づく。このあたりの家々の石垣には、黒っぽく不揃いなボタ石が積み上げられているのが、荒々しい独特の印象を与える。

ボタ山を少し登った所には、見晴らしのいい公園があって、住友忠隈炭鉱跡を示す石碑が建てられている。犬を連れたご老人に道を尋ねると、親切に教えてくれる。途中でかなり年配のご婦人二人に挨拶するが、声に力のある挨拶が返ってきた。筑豊の人はやはり温かい。

ボタ山周囲を回ると、幼稚園の大きな木造校舎が見えてくる。水色に塗り直してあるが、歴史のある建物であるのはわかる。昭和14年に建てられた「炭鉱会館」という名の保養施設だそうだ。大手の炭鉱には必ずあって、炭鉱労働者たちの娯楽の場所だった。終戦直後の景気いい時代には、東京から長谷川一夫らスターがやって来たという話は、あちこちの炭鉱で聞くことができたから、ここでもきっとそうだったのだろう。

 

 

「宗像SCAN」(主催M.M.S.T.)を観る

日本と韓国の演出家と役者を地元に滞在させて、地域を題材にした演劇作品を制作上演してもらう、という企画を観ることができた。こんな企画が自分のフィールド内で行われること自体おどろきで、ありがたい。

もちろん規模や内容において制約や限界があるのは仕方がない。おそらく日韓の若手の演出家が地元を案内されたのは1日で、役者が参加しての制作期間は3日程度。制作の前に、演出家と地元の人間を交えたトークイベントがあり、最終日に上演と専門家を交えたアフタートークがあった。韓国の役者は5名くらいいたが、日本側はアクシデントで1名だけだったようだ。会場もふだん美術展示に使うホールで、稽古場にパイプ椅子を並べて観劇するような感じだった。気づいた点をメモしたい。

よく韓国との演劇の交流の話は聞くが、実際にそういう舞台を観るのは初めてだった。外見は変わらないながら、別の言語と文化を内蔵する異国の役者には、日本の役者にはない奥行きが感じられる。間近で役者が話す韓国語の響きも美しい。日本の演出家が、こういう舞台の演出に魅力を感じるのはわかる気がした。

初日や最終日のトークで、韓国の若い女性の演出家は、通訳や不自由な日本語を通して、積極的に自分の問題意識を話しているのがよくわかった。この点で、一般的に日本の若手演劇人よりずいぶん成熟している印象を受けた。

日本側の演出家は、事前にインターネットで情報収集したことを明かし、その情報と日本の古典をもとに演出するプランを事前に作ってきたようだった。滞在期間を考えれば、当然の対応かもしれない。しかし、ネット情報に無批判な姿勢が少し気になった。

一方、韓国の演出家は、事前にプランを作らずに、現地での実際の滞在の経験から制作しようとしたという。役者との話し合いもしたらしい。彼女は、僕の住む市が、海側の自然や歴史が集まっている地域と、ニュータウンが広がる地域とに分かれていることが気になったようで、事前のトークセッションでもしきりにそのことを話している。

このため彼女の作品では、人と自然との悠久の関係を感じさせる重厚な前半部と、人間同志の確執や争いを描く後半部に分かれ、最後には、女神から参加者に海辺の砂を詰めた小瓶が渡され、参加者全員が輪になるという演出がほどこされていた。自然の側から、ニュータウンに住む疲弊した人々への慰労を意図したのだという。

この演出家の直観には僕は驚かされた。この地域のありようの本質を的確にとらえていたからだ。この街はベッドタウンではあるが都市部との距離がある。離職等で都市部との関係が切れたニュータウンの住民が地域に目を向ける時に感じるのは、旧集落の歴史や文化や自然との乖離だろう。

僕自身のささやかな取り組みも、言ってみれば、この乖離を具体的に歩き回ることで埋め合わせ、むしろ新たな価値を生み出そうというものだ。数日の滞在で、韓国の演出家がその点を見抜き、両者の和解の物語を紡ごうとしたことには舌をまく。あらためて演劇の力を感じさせられた夜だった。

 

 

詩の朗読会にて

すでに英文で三冊の詩集をもち、今春初めて日本語の詩集を出す髙野吾朗さんの出版祝賀会を兼ねた詩の朗読会に参加する。出版元の花乱社の一室に詩人の声が多様に響き渡るすばらしい会だった。僕も以下の文章を持参して、祝意を示した。表題は、「髙野吾朗さんの詩はなぜおもしろいか?」

 

この夏に、読書会で現代詩の本をとりあげて報告した。その時、手もとの詩集をまとめて読んでみたのだが、いわゆる有名詩人でも、心にひっかかって読み返してみたい作品の割合は、プロ野球の選手の打率よりも低いことを発見した。1割、2割が当たり前で、3割を超えて4割となると、ほとんど稀な才能ということになる。(もちろん、読者によって突き刺さる作品はそれぞれ違ってくるだろうが、この比率自体が大きく変わるとは思えない)
しかし、これでは読み手にとんでもない忍耐を強いることになる。現代詩がほとんど読者をもたない理由がわかる気がした。
読書会の掲示板にアップされた髙野さんの詩27編を同じ基準でチェックすると、僕にヒットしたのは16篇。およそ6割の超高打率だ。これなら、おそらく多くの読者がたやすく自分の好きな作品を見つけて、詩を楽しむことができるだろう。今回の朗読会のために、ある参加者は、全作品の採点を行い、レビューを書いたという。ふだん現代詩を読まないという彼女がそんな作業に没頭できたのは、髙野さんの詩が特別におもしろいからだ。

僕も、髙野さんの詩の秘密をさぐるべく、一覧表をつくって分析をおこなってみた。表の上段には、僕が詩を読む時に心惹かれる要素を並べている。魅力的な「舞台」が突如出現して、特徴のある「キャラクター」が登場する。詩の「展開」で大切なのは、予想外の「飛躍」と、脈動する「リズム」だ。どう終わるかという「終末」もないがしろにできない。
できあがった一覧表をみて気づくのは、髙野さんの詩には、どの作品にもこれらすべての要素が入っていることだ。これらの要素を備えた詩は、すくなくとも読者を置き去りにすることはない。一方、難解な現代詩の多くは、意識的にこれらの要素を欠落させたり、軽視したりしている気がする。なるほど、そうすれば先鋭で個性的な言葉の世界が立ち上がるにちがいない。しかし、そんな消去法だけが、詩を生み出す方法なのだろうか。

読書会の帰り、タクシーの中で髙野さんからこんな話を聞いたことがある。マスコミ勤務を経験した髙野さんは、読者に伝わることを条件として詩を書いているが、それが弱点と指摘されることもあると。
舞台にキャラクターがいて、展開と終末があるというのは、考えてみれば、僕たちが生きる世界の構造そのものである。この世界の似姿だからこそ、僕たちはそれを理解することができる。安易に似姿を作れば、それは「通俗的」ということになるだろうが、その条件のもとに、魅力的で新しいイメージや飛躍やリズムを盛り込むことで、真の意味で独立した詩世界を構築することができるのではないか。

髙野さんの詩は、精緻な言葉の断片であることをこえて、世界の全体に相渉ろうとしているように思えてならない。

 

『ことばと文化』 鈴木孝夫 1973

こうした良質な日本語研究の本(といっても僕が手に取るのは入門書の類だが)を読むたびに、いつも感じることがある。

まず、自分が当たり前に使っている日本語の構造や特色について、まったく目からうろこが落ちるような思いをさせられるということ。つぎに、少なくとも日本語については当事者であり、ちゃんとした現場をもっているのだから、その研究をする権利があるし、そうすべきだということ。まして、心の片隅にでも批評の看板をかかげているのであれば、なおさら。

と、思いつつ、日本語の日常的使用の安逸の海におぼれていってしまうのがいつものことなのだが、今回はぜひ例外にしたいところだ。

例えば、公園で泣いている幼児がいるとして、「おにいちゃん(おねえちゃん)、どうしたの?」と話しかけるのは自然だろう。しかしこの著者に指摘されてみればなるほど、一筋縄ではいかない理屈と背景があることに気づく。

まず、①彼(彼女)とは当然家族ではないのだから、家族に使う呼称を用いるのはおかしい。そこは飛ばすにしても、かなり年下の他人になぜ年長の兄弟の呼称を用いるのか。いや、②母親なら自分の子どもを「おにいちゃん」と呼ぶことは普通ではないか。しかしその場合、確実に年下の兄弟が存在しているだろう。③公園でたまたま見かけた幼児の兄弟関係は不明であるはずなのに、かってに捏造するのはなぜか。

①は、親族名称の虚構的用法。②は、親族名称の(家族の最年少者を基準とする)他者中心的用法。③は、②を虚構的最年少者を基準として実施しているもの。といった説明が続く。

この本の初版は1973年で、現在に至るまで版を重ねている。僕の大学時代にはもうあった本だ。学生時代は、言語学といえばソシュールで、パロールやラング、シニフィアンシニフィエなど意味ありげな翻訳語を振り回して、何か高級な事が理解できたと勘違いしていた。こういう本を読んで、自分の舌先から出て来る言葉の不思議について、しっかり考えることのほうがずっと重要であったのに。

 

 

 

 

 

詩集「富士山」 草野心平 1966

中学校時代の国語教師は、頑固な初老の先生で、たいぶ鍛えられた。教科書の予習では、国語辞典で調べて新出の熟語の意味をノートに書きだしてこないといけない。生徒たちの辞書の出版社はバラバラだから、これは新潮や三省堂ではどんな説明だったの?とか尋ねられて、実にマニアックな授業だった。ちなみに僕は、先生がお気に入りの黄色い箱に入った角川国語辞典を、3年間で真っ黒になるまで引き続けた。おそらく僕の語彙力の基本はあの時に身に着いたものだろう。

ある時、その教師が、地元の国立市の富士見通で草野心平がつくった富士山の詩を朗読してくれたことがあった。少し鼻にかかった東北なまりの朗読の声を今でもよく覚えている。その詩が読みたくなって、10年ばかり前、県立図書館で全集を借りてようやく探し出したことがあった。記憶通りのフレーズがあってうれしかったのを覚えている。

今回古本屋で、1967年に出版された小ぶりの日本詩人全集の草野心平の巻に、その「天地インウン」という詩を見つけたのは意外だった。ふつうのアンソロジーに選ばれるような有名な詩ではなかったからだ。その前年に出版された棟方志功との詩画集に入っていたから、タイミングよく収録されたのだろう。僕は迷わず300円で購入した。

「国立町富士見通りは文字通り富士見通りで。道路の真正面にまっぱだかの富士がガッと見える。」

ぱらぱらとめくってみると、昔は苦手だったカエルの詩のシリーズも、今なら素直に読めるような気がする。近々、まとめて読んでみよう。

 

 

 

橋の保存について

富岡八幡宮の近くに、明治11年に架けられた国産第一号の鉄橋である八幡橋(旧弾正橋)が保存されている。昭和4年八幡宮に近い場所に架け替えられて、改称されたそうだ。長さ15メートルで、幅2メートルほどの小さな人道橋である。

人通りの少ない遊歩道の上の陸橋となっているから、一応橋の機能は維持しているが、少し物足りない。保存の目的で、必要性の少ない陸地に架けられているように見えるからだ。しかし、説明板の写真を見ると、現在の遊歩道はもともと水路になっていて、その両岸を結んで立派に橋の務めをはたしていたことがわかる。(写真を見て、この橋、めっちゃ橋してる、と思わず言いたくなった)

八幡橋の下をくぐって遊歩道を進むと、別の鉄橋が保存されている。昭和7年に作られた旧新田橋で、こちらは道路わきに無造作に置かれているだけだから、橋の機能は全く失われている。本体は完全に保存されているのだろうが、こうなると橋としての魅力を見出すのは難しい。

建物の保存なら、もともとの立地を離れて、本来の用途を失っても、そこまで魅力を失うことはないだろう。先日神戸の異人館を見学したが、もともと居住者のためにお屋敷が、観光客のための見学場所に代っても、内部と外部を分ける、という建物の基本的な機能が変わることはない。もっとも建築物が建ったまま、この機能を失うことはちょっと考えにくい。屋根壁が破れた廃墟にでもならないかぎり。

隔絶した二つの場所をつなぐ、というのが橋のミッションだから、それが失われれば、すべての部材がそろっていても、それはもはやかつて橋であった鉄くずに等しくなるのだ。現在の八幡橋重要文化財の看板を背負いながら、どこかさえない表情を見せているのも、隔絶した二つの場所という要件が、川の水を抜かれたことで弱まってしまったからだろう。

以前、長崎の諫早だったと思うが、公園の池に保存された石橋が設置されているのを見たことがある。いくら石積みの美しさを誇る石橋であっても、人が渡ることのない橋は、途方に暮れたような間の抜けた姿だった。

 

 

 

小石川家族殺傷事件(事件の現場8)

今から10年前の2008年に、東京小石川の印刷所で、凄惨な事件が起こった。社長の男が、経営の行き詰まりから、創業者である父親と母親、自分の妻を殺し、現場を目撃して逃げた長女以外の二人の子どもに重症を負わせたという無理心中事件である。本人は自殺を図ったが死にきれずに逮捕された。

JR水道橋駅からタクシーで向かうと、その付近は、印刷所や紙工という表札を出した町工場が集まっている場所だ。町工場といっても、小売店くらいの間口の小さな建物が多い。印刷機の低くにぶい音が聞こえてきて、印刷物を運ぶリフトが通りかかったりする。大通りにでると、少し先に共同印刷の大きな工場が見えている。

事件のあった古い二階屋はまだ残っているが、一階には空き家の表示があった。細い路地をはさんで向かいに大きなマンションが建っている。当時は建設計画がもちあがり、工場の騒音に苦情が出て操業が難しくなることも、犯人の男は苦にしていたようだ。

人通りのない路地で、僕は手をあわせた。

当時74歳で亡くなった創業者の江成三男さんは、僕の遠い親戚にあたる。昔の事なのでよくわからないが、父方の叔母の姻戚関係にあたる人なのだろう。僕の父親は「みっちゃん」と呼んでいて、年賀状の交換を欠かさなかったようだ。子ども好きな父のことだから、若い頃には10歳ほど年少の江成さんをかわいがったにちがいない。もし父が生きていたならば、みっちゃんの非業の死に言葉を失ったことだろう。

僕は面識はないが、事件の何年か前に叔父の葬儀で姉が会っている。江成さんは、その時入院中で参列できなかった父に会いたがっていたそうだ。 

 

 

三億円事件から50年(事件の現場7)

三億円事件発生から、今日でちょうど50年だそうだ。

僕はずっと以前から、事件現場に足を向ける趣味があって、オウム事件の時は、上九一色村サティアンを見にいったりした。実は今回の東京出張でも、五つの美術館とともに二つの事件現場をはしごした。何気なくそんな話をすると、たいていの人はあきれて理解できないという顔をする。その原点は、もしかしたら三億円事件にあるのかもしれない。

当時僕は小学校一年生。現金輸送車が奪われた府中刑務所前の現場は、実家から数キロメートルしか離れていない。輸送車が乗り捨てられた国分寺跡は、さらに自宅に近く、親にもよく連れて行ってもらった場所だった。そんな身近な所が、連日の報道で大きなニュースとなって取り上げられたのだ。さらに何年にもわたって、全国の人々の目が注がれることになる。事件現場に実際に足を運んでそれを身近に感じたいという僕の奇妙な欲望に、なんらかの影響を与えたのは間違いない。

「投げうてば瓦も悲し秋の声」

江戸時代の俳人大島寥太(1718-1787)が国分寺跡で詠んだ句を父親から教えられたときには、まだ瓦のカケラが落ちていそうな草ぼうぼうの史跡だったが、今ではすっかり整備された公園となっている。