大井川通信

大井川あたりの事ども

諸星大二郎『西遊妖猿伝』を読む

年末年始休みに入る前に立てた目標の中で、唯一実現できたものが、諸星版の西遊記を読み切るというものだった。長編小説の名作を、とも思ったが、僕にはそれより諸星だろう。寝込んだ後、多少気分が良くなってもできることがない。その間、がつがつと読み進めた。活字なら追えなかったと思う。

出版当時買って読んでいた双葉社版「大唐編」9巻と、そのあと積読していた講談社版7巻「西域編」の手持ちの本を読めばいいのかと思っていたが、これだと「大唐編」の後半が抜けているのに気づき、急きょネットで潮出版社版16巻セットを注文し、後半の7巻を読み足した。

僕は、昔から諸星では、不思議な手触りの短編が好きだったから、原作のある長編を敬遠していたのかもしれない。双葉社版の最後のあたりのギャグっぽいところについていけなかった記憶もある。

しかし、今回、現在出版されているところまで通読して、やはり面白く諸星の代表作であることに納得した。原作は、諸星が比類のない想像力を発動するためのきっかけにしか過ぎないのだろう。

神仏の世界と地上の帝国、恨みを持って死んだ民衆という三者がダイナミックにおりなす世界が舞台となる。そこに登場するもろもろのキャラクター、異物たちが実に魅力的だ。物語の核となるのは、孫悟空の本体たる聖天大聖「無支奇」の謎めいた存在とその圧倒的な造形だろう。諸星作品に欠かせない魅力的な女性キャラも満載である。

本当に久しぶりに、物語を読み、漫画を読むことの喜びを体験できた気がする。寝正月もよしとするべきか。

 

オリンピックと万博とリッカーミシン

リッカーミシンの立川工場をネットで検索したら、東京五輪を回想する記事が見つかった。1964年に開かれたオリンピック代表選手の壮行会の写真を取り上げている。前に立つ吉岡隆徳監督や依田郁子選手らの姿と、その前に並ぶ工員たちの後ろ姿が写っている。工員は全員参加したというから、この会場のどこかに父親もいたのだろう。話好きの父親のことだから、その夜の食卓ではこの壮行会のことが話題となったはずだが、当時2歳の僕にはちんぷんかんぷんだったはずだ。

年末の吉田さんとの勉強会では、「働くことについて」の三本の記事を報告したので、あらためてリッカーという会社について思いめぐらしてしまう。

リッカーは、東京オリンピック陸上競技部を中心に14人の代表選手を送り込み、その6年後の大阪万博にも、パビリオンを出展している。会社の規模からしたら、この二つの国家的な行事への貢献は過大だったといえるかもしれない。ミシンメーカーとして高度成長の先駆けとなったものの、70年代にはすでにピークをすぎていたのだ。

その今では影も形も無い企業が支えていたオリンピックと万博が、半世紀以上後の今の日本に蘇ろうとしている。しかも再び、オリンピックは東京、万博は大阪、という冗談みたいな繰り返しで。

オリンピックが決まったときには、これで開催までの景気は大丈夫だという楽観論が広がっていた気がする。その安易な発想が、今になって強烈なしっぺ返しを受けているのだろう。

 

 

 

こんな夢をみた(初夢の効用)

体調も年が明けてからかえって悪くなったみたいで、寝苦しい中で、数時間おきに目ざめながら見た夢。

基本パターンは、学生時代に講義にまったくでなかったり、試験勉強をまったくしていなかったりして、途方に暮れるという例の夢。ただ、体調不良が災いして、さらに悪夢化が増していた。

小学校の算数みたいな簡単な問題をやらされて、その答案を提出せずに持って帰ってしまったことを後悔する、というタイムスリップな情景がそれにまざる。

このままで学校を卒業できるだろうか、留年してその先の就職はどうするのだろうか、と不安に思う。やがて、自分が行かなければならない場所がどこなのかも、何をしないといけないかもわからなくなる。

こんな悪夢から目覚めると、たとえ体調不良の寝正月の現実であっても、こちらの方がずっといいとほっとする。年末年始の休みに計画していたことはいくつもあるが、たとえ全部できなくなっても、どうってことないのだと開き直れる。

 

柄谷行人の里山思考

読書会の忘年会以降、風邪気味となり調子が出ない。街にも出かけられず、年末らしいことを行えないまま、大晦日になってしまった。今日は近所の友人と里山に参拝登山に行くはずだったのだが、それもキャンセル。

仕方なく、家で年末の新聞に目を通していると、年末恒例の書評委員による「今年の3点」の記事があった。要するに、知識人たちが、自分がどれだけ頭が良く、知識が豊富で、感性に優れ、政治的に正しい選択眼を持っているかを誇示しあうような、要するに頭でっかちな場所だ。

ところが、柄谷行人の文章が、他の書き手とまるで違ったトーンになっていることが目を引いた。もちろん柄谷も、例年は他の書評委員たちと同じスタンスでアンケートに答えていたはずだ。柄谷のあげた三冊は、猟師による体験記が二冊と、野生動物のリスクについての啓発書だ。哲学・思想書でもなければ、難しそうな本でもない。

この選書の裏には、柄谷のコロナ禍での生活がある。「私は毎日、近所の多摩丘陵を歩き回るようになり、見知らぬ動物に出会った」と簡潔に述べられているが、その体験が驚きと発見をもたらし、読書への態度の変更をもたらしたのだろう。

「態度の変更」とは、彼の若いころの批評のキーワードでもあるけれども、80歳近くなった現在でも、さりげなくそれを実践しているところが、柄谷の批評家としての力量なのだと思う。

彼は「生物多様性保全」というお題目が、実際には動物と人間との棲み分けの再確立でなければならないことを実感する。僕は、毎日近所の丘陵を歩き回るという体験の重さについて、柄谷に全面的に同意したい。

ところで柄谷は、家では「力と交換様式」という論文を書いて暮らしていたそうだ。コロナ禍での近所を歩く生活は、論文の内容にも何らかの影響を与えているにちがいない。

 

タワシとキノコとオサビシヤマ

次男は、小さいころから髪の毛が剛毛だったから、長男が「タワシ」とあだ名をつけてからかっていた。ずいぶん長いこと、タワシ君とか呼んでいたと思う。

長男は猫好きで、昨年末に実家に戻ってからは、猫の九太郎をそれこそ猫可愛がりしている、九太郎先生と呼ぶこともあるが、ふだんは「小ダヌキ」「小ダヌキ」と呼んで追いかけまわしている。

体重3キロちょっとで、短足胴長で目がまんまるの九太郎は、なるほどタヌキに似ている。長男はあだ名をつけるのが上手い。これはおそらく妻から受け継いだもので、妻はいかにも線の細かった子どもの頃の長男に、「ひょろたん棒切れ」とひどいあだ名をつけていた。よくわからないが、なんかわかる。

その長男もいつの間にかお洒落になって、すっかりイケメンキャラを気取っている。髪型が「キノコ」に似ていると指摘すると、「お父さんは、オサビシヤマだね」と返されてしまった。毛量のことを言われたら、ぐうの音も出ない。

 

作文的思考が、それしかないというような、密かな僕の方法論です

★以下は、2006-7年の「玉乃井プロジェクト」の時期に安部さんと連絡用に頻繁にやり取りをしていたメールからの一部抜粋。この時期に、後に台本『玉乃井の秘密』のモチーフとなった「タマシイの井戸」という発想や、「作文的思考」というキーワードが出ていたことに我ながら驚く。安部さんからの学恩に改めて感謝。

★このプロジェクトで、僕は玉乃井別館の旧炭鉱保養所にからんだ企画と、安部さんの祖父が作った「日本海海戦記念碑」の調査という二つの課題を担うことになった。いずれも安部さんの身近な人物や場所にスポットライトを当てて掘り下げたものだが、以後、その手法を自分の足元に向けていくことになる。

 

・僕としては、9月の会は「玉乃井プロジェクト」の一部として、タマノイに封じられた無数のタマシイの声に耳を傾けながら、人の営みについて語り合う場として位置づけてもらえたら、と希望します。

・より開かれた場所である、玉乃井プロジェクトと併走できるというのは、偶然とはいえ、「僥倖」だと思います。(安部さんが今日言っていたように)地味で、見栄えのしないローテクな「言葉」で頑張る、という意欲と刺激を受けることができる、という意味で。

・大づかみにいって、美術家の発想は、イメージから出発してイメージへと収斂するものに思えます。従来からの「作品」を否定しプロセスを重視する場合にも、そのこと自体がどこか形式的に「作品」として眺められている。イメージよりも、愚直な了解を求めるという自分のスタンスが、そこからはっきりしたように思えました。

・玉乃井プロジェクトは、いやおう無くそこにあるような家(建物)や道具、家族に直面することで、「思い出に淫する」ことに抗するような側面をはらんでいる、という気がします。

・実は、作文的思考、というのが、それしかないというような、密かな僕の方法論です。

 ・玉乃井プロジェクトには、安部さんが美術・思想の試みとして始めた狭義のそれと、100年前に玉乃井の建設とともに始まった、この建物という場での営業や出会いや愛憎の全てを含みこんだ広義のそれがあるでしょう。さらに、日本海海戦記念プロジェクトという、安部正弘氏を主体とするプロジェクトがあります。そして、全ての根底には、近代(化)という大きなプロジェクトがある、というのが僕の見取り図です。9月の会という対話の時空が、それらのプロジェクトの地層を、一挙に対象化するというやり方でなく、静かに手作りの探照灯を下ろしていくという方法で言葉にしていくことができたら、と願っています。

・玉乃井や安部家・建物の歴史を一方的に観察するのではなく、自分自身の家族の歴史とすり合わせることで発火する視点が、身体に刻まれた歴史に参入していくための手がかりになるということ。

・5日に、僕の恩師である今村仁司さんが亡くなりました。先日、安部さんが、現代美術について、それを見せる側の「気合」が、作品を成立させる、説得力を生む、ということを言われていて、なるほどと思いました。思想、などという言葉の絵空事も、それにリアリティを吹き込むのは、言葉を発する側の「気合」であるように思います。僕は今でも、何事かを考えたり、話したりするとき、恩師の「気合」に導かれている、倣っている、という感覚がどこかにあります。4月の9月の会で、とくにその感じをもったばかりだったので、その直後の訃報には呆然としました。

   

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働くことについて(その3 暁の超特急)

【暁の超特急】

小学校の頃、年に一度、大きなグラウンドを借り切った会社の運動会があっていろいろな景品をもらうのが楽しみだった。また実業団の都市対抗野球に出場するときには、後楽園に観戦にでかけて派手な応援に目をみはった。カワイガッキなどという子どもには聞きなれない対戦相手の名前が耳に残っている。父には特別に愛社精神のようなものは感じられなかったが、社員の家族たちも楽しませよう、という考えが会社側にははっきりしていたと思う。

平木信二は、会社が経営危機を脱して間もない昭和30年代初めに、会社に陸上競技部と野球部をつくり、実業団のスポーツ王国としての地位を築いていく。陸上では、昭和33年から7年連続、全日本の実業団選手権で総合優勝を飾った。駅伝大会の記録を見ると、当時西日本の雄だった八幡製鉄所と優勝を争っていたのがわかる。平木は、全国に散らばる直営支店の社員たちに会社への信頼と誇りをもたせ、消費者に社名を知ってもらうためにスポーツの振興に目をつけたのだという。また、それだけでなく、自身もスポーツ好きで「スポーツの盛んな国は栄える」という信念から、採算を度外視しても選手強化に力を入れた。昭和39年の東京オリンピックには14名の代表選手を送り出すなど、東京開催に大いに貢献したのだが、その頃がリッカーミシンという会社のピークだったようだ。

昭和40年代を迎え、ミシンの販売が頭打ちになると、他の家電製品を扱うなど多角化にのりだして行く。父からも、いつからか電子レンジの製造の話を聞くようになった。昭和45年には万国博覧会で、ワコールとともにパビリオンを出したというような話題もあったが、僕が知るようになった頃以降のリッカーは、かつての勢いを次第に失っていく姿だったのだろう。

リッカー陸上部の全盛期に監督に迎えられていたのが、戦前のロサンゼルスオリンピックの100メートル6位で、「暁の超特急」という異名をとった吉岡隆徳(たかのり)だった。吉岡は、当時女子短距離のエース依田郁子とともにオリンピックに臨んだのち、リッカーを退社して国立にある東京女子体育大学の教員をしていた。一橋大学のグラウンドで学生を指導する吉岡を見かけて、あれが暁の超特急だと父から教えられた記憶がある。

昭和59年のリッカーの倒産のあと、中央線から見える立川工場はしばらくそのままになっていたが、今では携帯会社のNTTドコモの巨大なビルが取って代わっている。リッカーミシンは戦後復興期、高度成長期という時代の寵児のような企業だったのだろう。時代は新しい花形産業とともに前に進んでいく。リッカーミシンについて考えると、僕には忘れかけていた養父を思い出すような甘く苦い感情がよみがえる。

 

▼参考文献 『夢、未だ尽きず 平木信二と吉岡隆徳』 辺見じゅん 1998

 

働くことについて(その2 あるカタログ)

【あるカタログ】

玉乃井プロジェクトの資料の展示コーナーには、玉乃井旅館のパンフレット等の営業の資料の他に、安部さんの家族のアルバムや記念の品物などが並べられている。その中に安部さんのお母さんが手元に置いていたような、日常の生活の書類を整理したクリアーファイルがあった。それをめくっているうちに、丁寧に保存された何十年か前のリッカーミシンのカタログが目に留まった。もしお母さん愛用のミシンのカタログだとしたら、そのミシンの製造には僕の父がかかわっていたかもしれない。

僕の父親は、リッカーミシンの立川工場に勤めていた。実家のあった国立は東京の新興住宅地で、成績の良い友人たちの父親は、新聞記者や弁護士、税理士、芸術家など花形の職業が多かった。もちろん、まだ貧しい時代でいろいろな家庭があったのだから、卑屈に思うというほどではなかったけれど、けっして立派とはいえない家構えとともに、父の職業については多少居心地の悪い思いをしていたのも事実だった。

リッカーミシンの創業者平木信二は、明治43年(1910年)京都に生まれ、不遇の少年時代を送りながら、昭和12年に会計事務所を立ち上げ、理化学工業の創設を経て、昭和23年(1948年)にリッカーミシン株式会社を発足させる。平木は、終戦詔勅を聞いたとき、「さあ平和産業だ」と叫んだという。終戦後、若い女性の間で洋裁ブームが起こり、月々500円の分割払いで24ヵ月後にミシンを渡すという「イージーペイメント」方式で売り上げを伸ばしていく。その後昭和29年に不渡りを出すという危機を迎えるが、直営支店を倍増させるなどの拡大路線で乗り越える。ミシンはこのころ日本の輸出のスター的存在にのしあがり、昭和34年には世界第一位のミシン製造国となった。

父はその昭和34年頃立川工場に就職し、リッカーが昭和59年に倒産する直前までそこで働いていた。僕は昭和36年生まれで大学卒業が昭和59年だから、自活できるようになるまで父の労働を介してリッカーミシンに扶養されていたことになる。そのころの父は僕の記憶にあるかぎり、それほど勤勉な働き手ではなかった。父の言いつけで書き始めた小学校2年生の日記には、およそ一ヶ月おきに「ひさしぶりにおとうさんがかいしゃをやすんだ」というフレーズが登場する。働き者の母は、他のことでは父親を立てていたが、休みが多いことには露骨に嫌な顔をした。「ひさしぶりに」という子どもらしくない表現は、家族に対する父のいいわけじみた言葉をそのまま書き写したものなのだろう。もっともそれ以外は、仕事の予定など几帳面にメモして残業や休日出勤もこなし、酒も遊びもやらずに趣味は読書という生真面目な人間だった。毎日きまって午後5時15分に帰宅して居間に居座られることは、子供心には気詰まりだったけれど。

 

 ▼参考文献 『夢、未だ尽きず 平木信二と吉岡隆徳』 辺見じゅん 1998

働くことについて(その1 六反田)

★2006年の玉乃井プロジェクトが、僕の作文にとって転機になったことを以前に書いた。プロジェクトの成果物である日本海海戦記念碑をめぐる文章は、以前に紹介している。プロジェクトと並行して開始していた9月の会で、もう一つ、自分にとって大切な文章を書くことができた。前年に亡くなったばかりの父親と労働についての文章だ。以下、3回に分けて紹介する。

 

【六反田】

父親が晩年、上野英信の著書を愛読していたのはなぜだったのだろう。偶然自分の息子が移り住んだ土地にゆかりの作家だということも理由の一つだろうが、それだけではないような気がする。いつも本棚一箱分しか手元に置かなかった蔵書の中に、上野英信ルポルタージュだけでなく、その家族のエッセイまでもが残っている。今度福岡に来るときには、宗像にあるという長男の上野朱氏の古本屋に寄りたいと何度も言っていた。まだ事故にあう前、実家で子どもたちを撮ったホームビデオを見ていたら、父親が上野英信の本を片手に話している場面があった。「六反田という所に上野英信の家があって・・・」そんな父の興味に、いつものように僕は冷淡だったが。

昨年4月に太宰府から直方の事務所に勤務先が変わって一週間もたたないうちに父は死んだ。片道40分ばかりの車での通勤になれた頃、宗像から鞍手へ通じる猿田峠を抜けてすぐのところに、六反田というバス停があることに偶然気づいた。調べると、その県道脇の目立たない集落で、かつて上野英信筑豊文庫を開き、炭鉱労働者とともに暮らしていたのだ。そのときからのどかな田舎道に思えていた通勤路の周辺に、無数の廃鉱の気配を感じるようになった。そうして改めて上野英信の本を手にとってみた。

上野は京都大学を中退して、文学を志しながら、筑豊の中小の炭鉱で働くようになる。当時大手の資本が経営する炭鉱と、地元の中小の炭鉱とでは労働条件はまったく違っていたようだ。上野はあえて、後者の、しかも昭和30年代の炭鉱不況の中で、いっそう過酷になった炭鉱労働者の生活に触れながら、ルポを書き続けていく。単に悲惨な現実を告発するというだけなら、ともに炭鉱で働き、終生「廃鉱部落」に住み続ける必要はなかっただろう。上野は、労働というものに価値があると信じられていた時代に生きていたのだ。もちろん、今も労働に値打ちがあることには変わりがないが、それは貨幣に換算される限りでの価値である。いかに多くの貨幣を生み出すかで労働は序列付けられ、生産性の低い労働は切り捨てられることが当然とされる。上野にとっては、労働はそういうものではない。それは悲惨であればその分だけ輝きをますような、世界を根底から支える活動であり、この世に変革をもたらすものである。

知識人が労働の価値を信じて、労働の現場へと降りていき、そこで豊かな言葉を見出していく。同時代の労働者として生きた父にとっては、上野英信のそんな古典的といえるような律儀な知識人の生き方に共感や敬意を抱いていたのではないか、とふと考える。今の僕には労働の過酷さとは、やはりたんなる酷さであって、告発の対象となるとしても、そこに寄り添うべき価値があるとは思えない。上野の「労働者とともに生きたい」という言葉にも倒錯の匂いを嗅ぎ取ってしまう。父もいわば生活の必要悪として労働を受け入れていただけのように思えるのだが、どこかに労働そのものに肩入れする気持ちがあったのかもしれない。そういえば、以前、父の職場で組合活動が盛んだった頃に会社側の第二組合への誘いを断ったという話を多少誇らしげにするのを聞いたことがある。職場の細々としたことはよく話す父だったが、そんな話は初めてだったので印象に残っている。

 

見つめること、そして肯うこと(安部文範『菜園便り』の世界)

安部さんと知り合ったのは、『菜園便り』の通信が始まる少し前の頃だったと思う。ある会合で定期的に顔を合わせたことをきっかけとして、自宅にも時々お邪魔するようになった。

たいていは夜だったから、旧玉乃井旅館は、奥でお父さんの起居するわずかな気配を除いては、がらんと静まり返っている。その深々とした闇を背景にして語りだされる言葉には、抗いがたい響きがあってたちまち魅せられた。一方、安部さんはパーティーが好きな社交家でもあって、大勢の友人たちを自宅に招いて会話を楽しむ姿には、孤独な言葉の使い手の面影はなくて、少々戸惑うところもあった。

 『菜園便り』には、野菜を始めとするたくさんのモノたちがやり取りされ、モノを携えたヒトが往来する様子が描かれている。菜園はどっさりと収穫をもたらし、安部さんは感嘆の声を上げる。菜園の恵みはおすそ分けされ、今度はあちこちから多くの届け物を招くことになる。安部さんがうっとりと眺めるのは、贈与が切れ目なくヒトとモノとをつないでいくような世界であるのは間違いない。

僕は贈り物というものが、昔から苦手だった。だから、ゆたかなモノのやり取りが、まぶしくもまた多少息苦しくも感じられて、実際のところ通信が送られている間は、あまりよい読者ではなかったような気がする。

しかし、まとまった『菜園便り』を見ると、安部さんの視線は、贈与の円環が破られ、贈り物がその行き場を失くしてしまうような場面にこそ注がれているのがわかる。それは、友人との小さな齟齬であったり、突然の離別であったりする。旧玉乃井旅館の建物もゆっくりと崩壊へと向かっており、肉親の老いや病気がそれに重なっていくのだが、安部さんは、たじろがずに、かといって虚勢をはるのでもなく、言葉を紡いでいく。

数年前、お父さんに続いて安部さんが同じ病院に入院したことがあって、お見舞いをしたのだが、安部さんがそんな状況の中で初めての入院生活に興味をもち、実に細やかに観察している様子に驚かされたことがあった。

 『菜園便り』には、映画や文学について書かれた文章も載せられているが、そこでは安部さんは、思いもかけずにもたらされる菜園の収穫を見つめるのと同じまなざしで、映画のフィルムや小説の言葉を愛でているような感じがする。安部さんが現代美術と深いかかわりをもったのも、それが既存の意味づけを振りほどいて、すぐれてモノそのものを提示する試みだったからかもしれない。

安部さんが領域を横断して、説得力のある言葉を語れるのは、内面による変換や了解を経由せずに、そこにあるものをあるだけ直に受け止めるような稀有な資質を持っているからだろうと思う。モノやヒトがもたらす恵みの喜びと、それが奪われることの茫然自失を等しく描き続けながら、『菜園便り』の10年で、世界を慈しみ肯定する言葉の力はいっそうの深まりを見せているようだ。

 

※この小論「見つめること、そして肯(うべな)うこと」は、『菜園便り』出版直後の2011年1月の勉強会「9月の会」で報告され、翌日の出版記念の催しでも配布、朗読する機会をえた。その後、安部さんの友人宮田さんの作る小冊子にも転載されたり、近くには、安部さんが人生を振り返る「お話し会」でも参考配布されるなど、僕の文章としては、珍しく長く人目に触れ続けたものだ。安部さんも当時、初めての作家論だと喜んでくれた。『菜園便り』以後すでに10年が過ぎているけれど、僕は安部論としてこれ以上のものが書けていない。安部さんの回復を願って、通信にアップする。

 

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