大井川通信

大井川あたりの事ども

クリスマスの朗報

7月に倒れて長期に療養していた安部さんの意識が半年ぶりに戻ったという連絡を受ける。車椅子に乗り、筆談ができるまでに回復しているという。特別にお見舞いを許された人のことをきちっと認識し、漢字も書けているという。

ただ、安部さんの伝えたい内容が、事情を分からない人間には断片的でよくわからなかったそうだ。それでつきあいの長い僕が、背景の事情や文脈を知っているのではないかということで声がかかった。ただ、残念ながら僕では役に立たなかった。

長い知り合い同士でしか話せない内容というものがある。安部さんとの間では、それは文学の話だった。もちろん安部さんの方が、はるかに知識も関わりも深いけれど、僕も関心があって知りたい内容を良く教えてもらった。

現代詩は共通の話題(堀川正美が二人の共通の好きな詩人だった)となったが、現代短歌への関心や教養は、10歳年下の僕には欠けている。安部さんが短歌の話をするときは、ふむふむと聞き流しつつも、耳に残った。

安部さんが倒れてから、著名な歌人の訃報が続いた。岡井隆(1928-2020)は、僕でも知っているような有名人だが、石川不二子(1933-2020)の小さな訃報を新聞で見つけたときは、安部さんの顔が浮かんだ。開拓農園に飛び込んで苦労しつつ子どもを育てた経歴など、何回か安部さんの口からきいていたからだ。今手元にある現代短歌のアンソロジーを開くと、代表歌としてこの歌があがっている。

「睡蓮の円錐形の蕾浮く池にざぶざぶと鍬洗ふなり」

意識を回復したばかりの安部さんは、二人の訃報を知らないだろう。いつか会えるようになったら、そのことを話したいとふと思う。

 

読書会のあと深夜の街を爆走する

昔、20代の頃、東京郊外で塾教師をしていた時、夜遅く仕事が終わってから、講師仲間で湘南の海までドライブしたことがある。僕は行かなかったけれど、日本海を見ようと北陸まで出かけた仲間もいる。みんな若かった。

時と所が変わって、博多の街。読書会の仲間はほぼ50代。二次会が終わって、酒を飲まない僕が車で駅まで送ろうとするが、終電に間に合いそうもない。年末で気が大きくなっている。いっそのこと遠方の人から順番に送ろうかと思いつく。

近場で早くかえりたい仲間からは、やめてくれと反対の大合唱。

では、そろりそろりと参ろう、と狂言の声色を使って狂気を装い、反対を押し切り高速に乗りこむ。アルコールの入っていない僕が一番酔っぱらっているようだった。コロナ禍で車は少なく、高速から見る夜の空港はきれいだ。同乗者もあきらめて車窓風景を楽しむ気持ちになる。

5人を自宅やホテルまで送ってから、夜半過ぎの自宅へ。20代の頃に戻ったようで、楽しかった。

 

 

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』 ブレンディみかこ 2019

読書会の課題図書。面白かった。親子による多様性のためのレッスンともいうべき物語で、すみずみにまで神経の行き届いたテキストになっている。

登場人物の個性も、エピソードの描き方も、ストーリーの展開も、言葉のセンスもとても心地がいい。だから、よくできたフィクションとして受け取る分には、何の問題もない。しかし、もしこれを事実そのままに近いノンフィクションと考えるとしたら、余計な違和感が頭にうかんでしまう。読書会の議論でも、このあたりではっきり評価が分かれた。

現実の子育てはもっとぐちゃぐちゃで、親子ともども美談などにはとても回収しきれない夾雑物を抱え込んでいる。日常は散文的で、小説のように都合よく興味深い展開をしてくれない。絵に描いたような排外的な日本人にタイミングよく出会う機会もないような気がする。

著者はとてもセンスと頭の良い人で、様々な現実を的確に解釈する枠組みが出来上がっているのだろう。そのためか著者が多様性の承認とは反対側に想定する敵役(格差やエリートや緊縮財政など)については、容赦ない決めつけが顔をのぞかせる。

たまたま廊下からのぞいたエリート校の授業風景だけから、子どもたちの決定的な分断が断定されたりする。一方、底辺校、元底辺校という言葉は連発されるが、その両者をつなぐ努力やプロセスについてはほとんど関心が示されない。

だから、底辺校を元底辺校に変える地道な努力を担った校長に対して、珍しく著者は煮え切らない態度を見せる。そのたたずまいには好感を寄せながら、学力優先の姿勢をやんわり批判したりするのだ。

洋の東西は違え、保護者によって書かれた学校論、教育論と考えるとすっきりする。保護者は、学校制度に関しては、それを与えられるものとして「消費」する立場なのだ。

 

 

里山の王者ノスリ

今回、津屋崎まで歩いて、うれしいことはたくさんあった。モチヤマの人から話が聞けたこと。山道がまだ通じていたこと。対馬見山に登れたこと。富士白玉神社を再訪できたこと。しかし、最大の喜びと驚きは、山道を下って、モチヤマの明るい棚田に戻ってきたときに訪れた。

そこは森に囲まれた棚田が段々に続いていて、まったく人気のない場所だ。3、4年前にここを歩いたとき、ノスリというタカと出会ったことが印象に残っていて、さして期待はせずに周囲の森を見回してみる。

すると常緑樹の単調な緑を背景に白い毛玉のようなノスリの姿があった。以前と同じ場所で同じように、棚田を見下ろしている。

ノスリはトビほどの大きさだが、白くでっぷりしていて、木々の目立つ場所にとまる。人が近づいても悠然と飛び立ち、分厚い羽根を広げて低く旋回したあと、少し離れた枝に戻るだけだ。野ネズミなどの獲物が出て来るのを見張っているのだろうが、自分の姿が見られることを少しも恐れていない。

まさに王者の風格。まいがいなくあの時のノスリだと確信して、山歩きの疲れを忘れてしまった。

  

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やま首の恐怖

モチヤマの集落を歩いているとき、屋敷の庭でゴミ出しをしている人がいたので、あいさつをして、津屋崎に抜ける山道について聞いてみる。

それを手始めに、モチヤマのことをいろいろ聞くと快く教えてくれる。もちろん僕の方も、モチヤマの知り合いの名前や村の歴史の知識を交えて、自然と相手の信用を得られるように努めたわけだが。

やがて話は、村はずれにある「やま首」の話になった。そこは細長い森が切れて小道が横切る場所だ。そこを通りぬける風は早さを増すから、夏でもひんやりとした感触がある。やま首では「あまりいい話は聞かない」とその人もいう。

明治生まれの村人からの聞き取りの記録には、こんな話が書いてある。

 

「そこにいったら祟るというわけではないが、ヤマクビというところがあって、そこではカゼに遭うといわれていた。カゼに遭うと、熱病にかかったようになり、何人かそうなった人がいる。カゼというのはマ(魔)であると信じられている」

 

 僕はその人と別れてから、意を決してやま首を通り抜ける。首筋を冷たい風がなぜたけれども、気にしないでずんずん先に歩いて行った。今から本物の山の神様に会いにいくのだから、よこしまな霊にかかわっている暇はないのだ。

 

 

家から歩いて登山する(対馬見山編)

大井川歩きの流儀だと、すべて自宅から歩いて行き、歩いて帰ってこないといけない。登山といっても電車や車で出かけて、近場から目当ての山だけに登るわけにはいかないのだ。近所の里山には何とか入り込んで、ヒラトモ様やクロスミ様を探りあてたが、山登りという感じはしない。

今年後半に入って、体重を落とし、大井川歩きを力強く復活させることができた。その中で、近場のもっとも有名な山であるコノミ山(標高271メートル)往復を何年振りかで実現し、新たにタレ山(標高126.1メートル)往復もやってみた。タレ山は近所の里山と高さは変わらないが、コノミ山と同じく遠めに目立つ「独立峰」の趣がある。

この二つの山の共通点は、自宅から直線で約3キロメートルの距離にあるということ。迂回した道のりは片道5キロくらいにはなるから、これが僕の体力の限界ということだろう。

久し振りに津屋崎方面の山越えをして、できれば山腹にある力丸ムツコさんゆかりの富士白玉神社にお参りしようと考えて早朝家を出た。近年の山の荒れ方からすると、津屋崎に抜ける山道が通れない可能性も高い。

山道に入ると、倒木は目立つが、歩けないことはない。竹が生えてないことが大きいだろう。一か所、倒木で小さな丸木橋が壊されていたが、その倒木を伝ってなんとか渡る。峠の別れ道まできて、山の斜面をのぼる小道を発見し、にわかに山登りへの欲望が芽生えた。

ここは対馬見(ツシマミ)山といい、津屋崎の海側からは、三角形の姿が目立つ標高243メートルの山だ。その分傾斜がきついことは覚悟していた。滑落の危険を感じるほどではないが、木の幹にすがりつきながら、一歩一歩足元を確かめつつ登る。

山頂からは、樹木の隙間から玄界灘を見下ろすこともできた。ここも自宅から直線でちょうど3キロのところにある。反対側も急傾斜で、樹木だよりの下山になる。富士白玉神社にたどり着き、お参りをすると、ムツコさんからいただいたものと同じ津屋崎人形のキツネがたくさん奉納してある。そのあと津屋崎の側には行かずに引き返した。

山道に入ってから登山とお参りをして戻るまで、一人の人にも出会わなかった。小さな登山だけれども、山は修行の場だとあらためて気づく。仕事や日常のわずらわしさを離れて、自分の生命の力を取り戻したような気分だった。

 

 

『夏子の冒険』 三島由紀夫 1951

読書会の課題図書。三島由紀夫(1925-1970)が自死したのが小学校3年生の時で切腹のニュースの衝撃が大きく(当時はまだ天皇を神と仰ぐ風潮が残っていたから)「まともな」作家とは思えずに今までなんとなく敬遠していた。今回初めて読んで、若いのに自制のきいた筆力とユーモアも自在に操れる文体をもっているのに驚いた。

「わたくし、年寄りではございません。年をとるまいと思ったのが三十の年で、それ以来年をとっておりません。松浦の家へ嫁にまいりましたとき、いびきをかくまい、と思い立って今までかいたことのないわたくしでございます」とは、夏子の67歳の祖母のセリフだ。

夏子は他者の絶対的な情熱の前に自制を失って突っ走り、家族や周囲はただそれにひれ伏すしかない。三島自身が徹底して自制とコントロールと配慮の人だったために、戦前の天皇制みたいな、空虚な情念にやみくもに従うような世界にあこがれをもっていたのかもしれない。

読書会の事前提出レポートに「この物語のその後、夏子と毅が結ばれるための新しい展開を考えてみてください」という課題があったので、次のようなストーリーを作ってみた。 

 

「毅と別れて修道院に入るために夏子の乗った青函連絡船が、巨大クジラにぶつかって沈没し、夏子はクジラに飲み込まれてしまう。毅は再び復讐を誓い、捕鯨船に乗り込んで、巨大クジラを追う。

実は夏子は特異な生命力によりクジラのお腹の中で快適に生活していた。クジラの肉体を乗っ取って、外界をモニターし、泳ぎもコントロールしていた。

そこに、捕鯨船にのった毅が現れ正面に立ちふさがる。クジラの腹の中の夏子は、毅の瞳に再び情熱が燃え盛っているのを見て、強くひかれる。

毅の打ったモリは巨大クジラに命中するが、クジラは捕鯨船を海中に引き込んで、どこまでも深海に潜っていく。その後二人の姿を見たものはいない」

 

 

曜日の当てを失う

何かちょっとした違和感がある。職場の壁に掲げられた週間の予定表を見ても、今日がどの曜日に当たるのか、すぐに思い当たらない。あわてて思いめぐらすと、知識としては、今日が何曜日でなければならないのか考えることはできる。しかし、その知識が、実感と結びつかないのだ。

週休二日制で働いている勤め人には、誰でも漠然とした「曜日の当て」のようなものをしっかり持って毎日を過ごしているだろう。月曜な週始まりの憂鬱と緊張感。まだまだ二日目の火曜。波にのってきた週中の水曜。ようやく木曜を迎え、まぎれもない喜びの週末金曜へ。この「曜日の当て」が消えているのだ。

まちがいない、記憶が少し不安定になっている。あわてて自分の机に戻って、この異変のゆくえを見守ることにする。数少ない経験を踏まえれば、もしこの嵐が大きくなるなら、曜日や日にちのあてはおろか、時間や自分がどこにいるのかといった生活の地盤や文脈までもがぐらぐらと不安定になっていくだろう。

そうなればよりいっそうの不安に取りつかれ、生理的な気分までが船酔いみたいに悪くなってしまう。さらに、文脈の記憶から切り離されて「短期記憶」だけになってしまうと(一過性全健忘の発作だ)、不安は最高潮に達するのだろうが、その記憶は発作後には残らない。

さいわいなことに見えない嵐は去った。記憶の揺れは大きくなることなく収まったようだ。10年以上前に大きな発作を起こしてから、ちょっとした兆候にも敏感になっている。発作の入り口のような体験は、久しぶり、おそらく数年ぶりだろう。意識しなくても年末で疲れがたまっているのかもしれない。用心しようと考える。

 

 

 

『流しの公務員の冒険』 山田朝夫 2016

東大法学部卒の自治省のキャリア官僚だった著者(1961-)が、大分県への出向をきっかけにして、地方での仕事の魅力に取りつかれて、小規模の町や市で課題解決の仕事を請け負う「流しの公務員」として活躍する姿を描くドキュメンタリー。

古書店で見つけたのだが、表紙に笑顔でトイレ掃除をする著者の写真があって、そのあまりのベタさで購入をためらったほどだった。ただ読み進めるに従って、そんな写真にも納得できるようになり、この手の本の中でも出色の内容であることに気づいた。

とにかく目線が低い。それは、キャリア出身とは思えない、わかりやすく謙虚に自らの発見と体験をつづった文体に現れている。現場で、ふつうの役場の職員や地域の人たちと徹底的にぶつかり、仕事や生活をともにした生き方の成果だろう。

 仕事とは、「心の底から」問題を解決したいと思って行う「具体的な」行動である、と著者はいう。問題解決のポイントは、「問題の本質から逃げない」「どこがゴールかをはっきりさせる」「関係者を巻き込み、その気になってもらう」ということになる。

別に目新しいことではない。仕事術などのノウハウ本にはもっとスマートにまとめられている知識だろう。しかし著者の一歩一歩の歩みの中から発せられる言葉には、各段の重みと説得力がある。以下、気になった部分の引用。

「人の心はどのような時に動くのか。それは『驚いた』時です。予測を超える『事件』が起こった時、初めて人の心は動く」「ファシリテーターは『すべての意見には傾聴に値する部分がある』という姿勢を貫くことが必要です」「情報を公開し、きちんとした議論をすれば、意見は必ず正しい方向へ集約されると信じること」

「県庁というのは一番中途半端な組織です。理屈はこね、いろいろ指導をするけれど、結局、責任をとるのは現場です」「官僚が語る『地方創生』の話を聞いていると、言葉だけが上滑りしている感じがあります。それは『現場』がないからだと思うのです。バックに自分の実体験があるのとないのでは、言葉の力が全然違います」

 

 

 

こんな夢をみた(思想家の話を聞く)

広い座敷みたいなところで、ある思想家(内田樹みたいな顔をしていた)の講演を聞く。あんまりかしこまった場所でなく、雑談みたいな感じだった。清少納言とかつげ義春の名前が出て、はっとするような驚きに満ちた話だった。

僕がふだんから考えていたことに重なるので、この方向でなら、僕にも何かいいものが書けそうな自信があった。書いたら、彼に見てもらおうか。その時は原稿用紙にしようかなどと考える。ただ、ふと彼の話もいつものはったりめいたものではないか、という考えを頭をかすめる。

話が終わると、会の途中だけど彼は着替えて帰るらしかった。よく見ると、ここは温泉施設か宿泊所の座敷みたいな場所だ。知人の二人と彼を送ろうとするが、目の前でエレベーターが閉まってしまう。後から追いかけようと思ったが、下では僕など待っていないだろうと思いとどまると、案の定、二人はすぐに戻ってきた。

座敷では、みんながわいわい騒いでいる。修学旅行中みたいな雰囲気で、中には子どもの姿もある。悪貨は良貨を駆逐する、ということが話題になる。すかさず、目の前の子どもが茶々を入れる。あっかんべーだ、と。