大井川通信

大井川あたりの事ども

黒住教祖逸話集 河本一止 1960

「教祖様の御逸話」(これが正式書名)として、昭和14年から19年まで連載されたものを戦後に教団が発行したもの。もう10年ほど前になるが、大井川流域の石祠クロスミ様の由来を調べているとき、名前が似ている黒住教の遠方の教会所に飛び込みで訪ねたことがある。その時応対に出た方が、ご本人がずいぶん読み込んだと思える古書をくださったのだ。今回、最後まで目を通してみて、思いのほか面白かった。

黒住教の教祖黒住宗忠(1780ー1850)の人となりを示す話や、病気直し等の「おかげ」の話が中心であるが、とにかく人、モノ、世間への「陽気な」肯定に満ちている。ここには難しい教義はなくて、日本人なら感覚的にわかってしまうような、すべて「神意」なのだからありがたく受け止めようという心映えがある。

当時の「修験者、祈禱者」から布教を妨害された逸話も出てくるが、様々な既得権による因習にさいなまれていた幕末の庶民にとって、ものにこだわらないストレートな明るさはとても魅力的だったのだろうと思う。

子ども時代、父親から下駄をはけといわれ、母親からは草履をはきなさいと言われたときに、親孝行のあまり下駄と草履を片方ずつはいて出かけたという話。有名な人相見から、あなたは阿呆の相です、といわれてそれを喜んだという話。ここには宗派を超えた、人間の一つの理想像が描かれている。しかし、近年、この共通了解は急速に崩れているのではないか。

草履を新しくするたびに破れた草履をていねいに拝む、という教祖の姿に共感することは、現代人にはいっそう難しくなっている。学校教育でも合理的な計算や議論に長けることが何より求められる時代になった。だからこそ、今では手が届かない、どこかなつかしい世界の物語として心惹かれるのかもしれない。