大井川通信

大井川あたりの事ども

まずは、わかりやすい詩から読んでみよう(その3)

今回のにわか仕立ての詩論のシリーズは、たまたま手元にある詩集と詩に関するなけなしの知識を出発点にするつもりである。実はわかりやすい詩で、まっさきに思い浮かんだのが、井川博年(1940-)だった。

内容的には、身辺雑記や回想風のエッセイがほとんどである。しかし、それを詩にするために、わざと文脈を欠いたり、内容を欠落させたり、断片化させたりしている。それも、詩としての意識や技術を感じさせるものではなく、ごく無造作なものだ。そのため、意地悪な言い方をすれば、もったいぶった中途半端なエッセイにしかみえない。散文としてていねいに書いた方が、よほど伝わる気がする。

思潮社の現代詩文庫の『井川博年詩集』を読み通してみたが、97編中、〇は1篇、△は13篇という結果だった。ここでも偶然、「打率」は1割5分程度となった。比較的初期のもので、構成力を感じさせる短い詩(△評価)を引用してみる。

 

死ぬ直前/ベッドの横で泣いている妻に/夫は笑顔でこういったという/なんとかなるさ/人生はきっとなんとかなるものさ・・・/そしてほんとうに/人生はなんとかなるものよ/と笑顔で/小さなバーのマダムはいった。/丸い高い椅子の上で飲んでいると/酔いは早くまわるのか/その時ぼくは急に/確実な地面が欲しくなり/足をのばし 靴の先で/床をそっとさわってみたのだ。 (「靴の先」)

 

こうして比較的わかりやすいと思われる詩人(しかも自分が好意を抱いて詩集を持っている詩人)を三人取り上げてみて、詩としての面白さに心が動かされる作品が、そろって10編に1,2編だったという結果に、正直驚いている。もちろん、僕の読みや感受性のレベルが凡庸であることは認めるが、僕と同様の一般の読者にとって、この割合は、読書の忍耐の限界を超えるものではないだろうか。