大井川通信

大井川あたりの事ども

好きな詩人を読んでみよう

粕谷栄一(1934-)は、一貫して不条理な寓話風の散文詩を書き継いでいる詩人。現代詩文庫に入っている処女詩集『世界の構造』を読んでファンになったため、目についた時に購入した詩集を二冊持っている。そのうちの一冊『鏡と街』(1992)を、5年ほど前に半年ほどかけてじっくり読んだ。今回全42篇を数日で通読して、例の〇△式採点法を使ってみた。

ところで、今回は読書会での報告、という必要があって、詩をかなりのスピードで読めるようになった。この理由を考えてみよう。

現代詩は、詩人特有の表現法で書かれているから、いったん作品の世界に入ると、そこでの秩序を取り仕切っているのは作者であり、どんなに奇怪な言い回しにも、突飛な飛躍にも、読者は黙って従わないといけない。主導権は徹底的に作者がにぎっているのだ。たとえ短い作品を読む場合でも、これは相当なストレスである。しかも唯々諾々とした結果、格別の読書体験が得られる、というならいいのだが、経験上、大半は疑問符だらけで終わることになる。

先走ってしまったが、僕は、これが現代詩が一般的に読まれていない大きな原因だろうと思う。多少は面白さが感じられる作品が3割程度、出会ってよかったと思える作品が1割にも満たないというのが、平均的な現代詩の詩集の在り方だとしたら、ストレスだけで実の無い7割をスルーする読みの戦略がなければ、本当に美味しい果実を手にすることは難しいだろう。

つまり、読みの主体性を読者の側が取り戻すような工夫が必要なわけだ。これが僕の場合、〇△式採点法ということになる。自分にとって少しでも魅力的な表現(△)を探す、という視線で読めば、自分のアンテナに引っかからない作品を何とか理解しようと努めたり、そのあげくわざわざ低評価を下す、というエネルギーの浪費をカットすることができる。△評価の作品に集中することで、作者の独特の表現の美点に気づき、自分にとって本当に魅力的な作品(〇)に出会うための準備をすることができる。

これはもしかしたら、いろいろな表現ジャンルで、受け手が無意識にとっている戦略であるのかもしれない。しかし、とりわけ現代詩というジャンルでは、意識的にとる必要がある方法ではないかと思う。

さて、粕谷栄一のこの詩集では、〇が6編、△が15篇で、「打率」はなんと5割だった。しかし、もともと好きな詩風で、再読であるという好条件であっても、やはり半分はピンとこない作品なのだ。しかも〇の内で、◎(何度も読み直したい、ほれぼれするような作品)は1篇だけだった。