大井川通信

大井川あたりの事ども

『Q学』 田上パル 2019

田上豊さんの芝居を、昨年に引き続き観た。こちらのほうが田上パルという自分の劇団での上演作品だから、より完成度が高いもののはずだろう。しかし、僕には、昨年の作品の方が面白く、この作品は、観劇後10日ばかり経って、はやくも印象が薄れてしまっている状態だ。

もちろん僕は観劇の経験も浅く、芝居を正しく評価する資質も素養もない。実際のところ真から楽しめる舞台も少ない。ただ、芝居という仕掛けに興味があって、その仕掛けを理解することを通じて、もっと広い世界の仕組みを了解する手助けになるのではないのか、と漠然と感じている。

この観点から、この芝居を論じてみる。前回気づいたのだが、田上さんは、舞台上に魅力的な空間を作り出すためのきっかけみたいにストーリーを考えているのではないかと思う。これは演劇に関する限り、正しい割り切り方であるにちがいない。

しかし今回は、あまりにストーリーがしょぼすぎる。8人の女子高生がでてくるが、教室の中の女子高生という存在が類型的で個性も人生も描きようがない。一人だけ「個性的」な存在が物語を動かすのだが、彼女が唐突に仲間を励ましたり、突然教室に背を向けたりするふるまいはとってつけたようで、説得力がない。唯一でてくる大人である演劇の授業の講師も、ステレオタイプのピエロでしかない。

研究授業の発表会で、クラスで「走れメロス」を演じ、その劇中にクラスに背を向けた級友を呼び戻そうというドタバタが、この芝居のクライマックスで、たしかに生身の役者たちの躍動が魅力ある空間を作ってはいたが、そこにストーリーによる裏打ちが全くないとなると、それはその場限りのドタバタのコントにしか見えない。

もう一つ。舞台は、一貫してとある学校の教室で、いちども別の空間に変貌することはなかった。役者と役柄の一致も破られず、舞台も同じ場面を描き続けるとしたら、現代演劇の大きな魅力を封印してしまっていることになるだろう。

その中で、かろじて吉本新喜劇にもコントにもならずに、演劇の魅力を発揮していた要素があった。空間は、ずっと同じ教室だったけれど、時間の流れには、演劇らしい飛躍があったのだ。ひとつは、ちょっとわかりにくく魅力というほどではなかったが、年度始まりのまだ問題の級友が元気だったころの回想シーン。はっきり魅力的だったのは、教室の時間を止めて、二人だけの対話に入るシーン。

さらに、しっかりアクセントとなって全体を演劇らしく締めていたのは、何度か登場する唐突な詩の朗読シーンだった。たしか「演劇は風・・・」というような、舞台自体を別次元から俯瞰するような意味ありげな言葉の朗読の場面だ。

ほぼストーリーの展開や舞台の構成とは関係のない異物のような言葉が、この舞台のゼロ記号になり、かろうじて舞台の秩序と魅力をつなぎとめていたのだと思う。