大井川通信

大井川あたりの事ども

『方舟さくら丸』 安部公房 1984

読書会の課題で読む。といっても小説を読む会ではなく、ふだん評論を読む読書会の方で、足掛け25年くらい関わっているが、小説は初めてかもしれない。難敵ぞろいの参加者だから、報告者ではないけれども、少し念入りに読んだ。読後の印象をメモしておこう。

平成2年に出た文庫版をすぐに買って、二度ほど挑戦したが、主人公がデパートの屋上にいったあたりで挫折していたような気がする。ストーリー展開の遅い純文学の長編は苦手なのだ。ところが、今回読み通してみると、意外なことに面白かった。安部公房の未読の長編を読むのがいっそう楽しみになった。

この小説が発表された1984年は、僕が大学を卒業して会社に就職した年だ。人生の節目として鮮やかに記憶されていて、その前後十年くらいの出来事は前後関係まで明瞭に覚えてる。それは、とりあえず作品に接近するうえでの有利な足場とはなるだろう。

まず、当時核戦争の脅威や核シェルターの必要性がリアルに感じられていたかというとそうではなかったような気がする。1982年にヨーロッパに端を発した反核運動が署名運動となって広がり、それに吉本隆明が『反核異論』でかみついたりしたが、運動自体は危機意識に基づくものというよりブーム的な感じで、吉本の奇妙に力んだ正論が空回りしている印象だった。当時は、被爆国としての思いは今と比較にならないほど強く、どんな機会に便乗してもそれを訴えるのは「大衆」の自然な感情だったろう。原子力の怖さを実感させたチェルノブイリ原発事故は、少し先の1986年のことだ。

当時、方舟といって誰もが思い浮かべたのは、まちがいなく「イエスの方舟」事件のことだ。1970年代後半に、僕の実家に近い東京国分寺に教会をかまえた千石イエスは、家出人の若い女性信者とともに全国を「漂流」し、1980年に家族からの訴えにより大きな事件として取り上げられる。実際は洗脳等のイメージとは程遠い信仰グループであったため、むしろ家族や社会や報道の在り方の方が問い直されたという珍しい事件だった。実際、千石の死後も、グループは共同での信仰生活を現に続けている。

主人公の友人である比較的良心的な人物の名称に「千石」を使っていたり、サクラと呼ばれる人物に、いつわりの方舟の中で生きる決意をさせたりするのも、この事件の経緯の影響が少なくはない気がする。

イエスの方舟に乗船した若い女性たちは、一見平穏な郊外生活の核家族に潜む欺瞞や暴力から逃避した人たちだった。この点で、方舟さくら丸は、イエスの方舟との本質的な共通性をもつと思うのだが、それは後述しよう。

先鋭化した小集団の武装ということでは、オウム事件を彷彿とさせるが、オウム教団の成立は1986年であり、表立って様々な活動を開始するのは1990年代に入ってからである。(307頁に「オウムごっこ」という言葉が出てきてドキッとするが)

主人公は、豚やモグラというあだ名をもつ「異形」の者(父親は「猪突」である)であり、最初から最後まで一貫して、いままで関わることのなかった女性との接触が最大の関心事である。不遇な家庭環境を強いられた息子として、父親への憎しみを語り続けてもいる。本人がそうもらしてもいるが、家庭が平穏だったり、異性とうまくやれたりしていたならば、方舟など思いつくことはなかっただろう。 彼が方舟から脱出する選択を取れたのは、なんとか女性との関係を成立させ、父親の死に立ち会ったことが大きいように読める。

方舟の「船長」からしてこうなのだから、核時代の生き残りという大仰なテーマは、作者の意図はともかく、一種のギミックのように見えてしまう。それでも作品は十分に面白い。では作品がはらんでいる真に現代的なテーマは何なのだろうか。

この主人公は、今読むといわゆるオタクの典型とも思えるが、宮崎勤による連続幼女誘拐殺人事件によってオタクに注目が集まるのは1989年であり、80年代前半には、まだスマートな新人類が新しい若者像の中心だった。社会に潜在していたオタク的存在や、引きこもりなどの問題を先取りしたという功績があるのかもしれない。

小説の舞台となる「北浜市」の「ひばりヶ丘」は、新しく造成された住宅団地がひろがる典型的な郊外(ニュータウン)である。明るく、健康的で、ベットタウンとして消費の場である郊外は、その地下に巨大なモノづくりの現場である石切り場の残骸を押し隠している。そこに生息するのは旧集落に出自をもつ不健康で異形の存在である主人公であり、そこに吸い寄せられるのも、テキヤやサクラなどの(しかも指名手配や借金取りに追われる身である)市民社会に受け入れがたい存在たちだ。

一方、郊外住宅の側も、子どもたちの家庭内暴力や非行など、また高齢化による老人問題をはらんでいた。それらの存在や予感が、「ほうき隊」や少年たちのグループ「猪鍋」のデフォルメされた姿として描かれている。

今高度成長期以降に作られた郊外(ニュータウン)が疲弊し、崩壊の危機に瀕している。『方舟さくら丸』は、その郊外の成立の現場を、そこから排斥されたものたちの視点をグロテスクに取り入れることで、それがかかえこむ空洞と共に描き出した作品と言えるかもしれない。