大井川通信

大井川あたりの事ども

積読の作法

僕は、自分が読む能力の範囲をはるかに超えて本を買ってしまう。すぐには読めないかもしれないが、手元においていずれ読んでみたいという本に手を出すからだ。これは、本好きにとって、かつてはごく当たり前の本の購入方法だったような気がする。だから積読(つんどく)なんて言葉がふつうに存在しているのだろう。

ある時、自分よりかなり若い世代の本好きが、自分が実際に読む本しか買わないし、さらに読み終わると平気で本を手放してしまう姿を見て、がくぜんとした。しかし、本を情報という商品と考えれば、これはずっと合理的な消費行動だ。必要な時に購入し、消費してしまえば、媒体としての本は不要になる。

読みもしない本をせっせと購入し持ち続けるのは、本への物心崇拝みたいで、むしろ異常な態度であることに気づく。このような態度が出版業界を支えていたのだから、合理的な読書人の登場とともに本が売れなくなるのも仕方ないことだろう。

しかし、今の自分は、実際に自分の積読にずいぶん助けられている。積読の効用についてメモしておこう。

僕の積読蔵書は、40年にわたって形成されている。そこから任意に選び出して本を読んでいるので、新刊書と20年くらい前の本とを続けて読むなんてことは当たり前に起こる。現在の観点に縛られない、時代を自由に行き来するような読書が可能になる。

この40年の間に、僕という人間もずいぶんと変化していて、積読本にはその時々の自分の関心が反映されている。積読本を読むことは、過去の自分と出会い対話をするという側面もある。「現在の自分の関心」という一点からリサーチしたのでは決して届かないような広々とした領域を舞台にして、本と出会い、本を味わうことができるといえるだろう。

なにより積読本たちは、読んでくれという恨めし気な顔でこちらをみている。もちろん日常の風景として見て見ぬ振りをすることもたやすいのだが、怠惰な僕には、それが読書や勉強の動機になっているところもあるのだ。