大井川通信

大井川あたりの事ども

仏道の師の話を聴く

コロナ禍で二年ぶりに羽田師の講演会があった。コロナ禍のため、師の来日はかなわず、アメリカからのズームによるオンラインの開催だ。宗門の人たちが60名ほど参加していたが、いつもどおり僕はまったくの部外者として聴かせていただく。

ただ、例年、師は宗門の人たち向けに専門的な講義を二日間に渡って行い、最後の一時間半で、一般向けの講演会を行っていた。僕が聴くのは、その最後の講演会だった。そこでは師によって把握された浄土真宗のエッセンスが語られる。

今回の三時間半のズームの講演は、例年なら宗門向けの講義の部分がコンパクトになったものだろう。だから経典に基づくより専門的な話が多かった気がする。

いつもなら師の話の迫力に圧倒されるばかりなのだが、今回はズームであることと、専門的な議論が多いこととで、やや距離をもって思いをめぐらすことができた。それを書いてみる。

師が提示する浄土真宗のエッセンスは、すこぶるシンプルだけれども、全身で受け止めざるをえないような力と豊かさをもった言葉だ。それは確かに歴史的には、釈迦から始まる仏教の積み重ねの中で紆余曲折の果てに生み出され、精緻に構築されてきたものかもしれない。経典を学習するということは、その複雑な経緯を追跡することだから、いくらでも詳細になるし、詳細なものを研究するのは人間のさがとしてマニアックな面白さと達成感を得られるのだろう。

しかし、その複雑と詳細を経由して目指すのは、結局のところシンプルなエッセンスなのだ。問題なのは、このエッセンスにいたるのに、歴史的な経典の振り返りが不可欠なのかどうかという点だ。

師の短い講演会やエッセイの中では、この振り返りもまた必要最小限のものになる。それを知る者からすると、いくら羽田師をもってしても、その振り返りの詳細なふくらましは、専門用語の言い換えや解釈の過剰に陥り、何かが深まり焦点が定まったというようには思えなかった。

仏教の議論の特徴は分類であり、その根底には強固な二分法の思考があるように思える。議論上何かを肯定し取り出すためには、その反対のものを想定し否定しなければならない。議論がこまかくなればなるほど、この否定の操作が増えていき、息苦しくなる。エッセンスのシンプルな豊かさからは遠ざかったいく。

少なくとも、今の時代、真宗のエッセンスを補強するのにふさわしい言説や体験は、仏教の経典以上のものが豊富にあるだろう。だから僕にとっての仏教は、羽田師の英文の簡潔なエッセイを読むことにとどめ、それを深めるのは、まったく別の活動(たとえば大井川歩き)に任せている。

このことは、今回の講義の最後の質問コーナーを聞いても間違っていないように思えた。そこでは、羽田師の講義のエッセンスとかけ離れた質問を繰り返す人がいて、師も少し気色ばんでいたように思う。それ以外の人達も、細かい経典の解釈についての質問で、そこには師も熱心に答えていたが、その解釈上の枝葉末節が、本日の講演の内容に正面からぶつかったものには思えなかった。宗門の人たちが最重要視する「聞法」(経典の学習)の限界みたいなものを感じたのだ。