大井川通信

大井川あたりの事ども

定年後一か月

定年後、ようやく一か月経った。定年とはいっても、職場は古巣に戻り、ただ仕事内容と立場が全く変わる、ということで、ハードな転勤みたいなものだから、なかなか大変な一か月だった。

勤務時間が少し短くなり、職務上の責任が軽くなる、という点では楽だったし、いろいろ実務をこなすのも新鮮で面白いということもあった。しかし、職場におけるポストとそれに伴う人間関係の激変は、自分がどう受け取ろうが、客観的にストレスになる。

これに関しては、一か月かけてようやく身の処し方を学び、それに適応することができるようになった気がする。今までは管理職として、できるだけ視野を広くして、全体に気を配るのが仕事だった。

ところが今は、大きな組織の一室に机をもっていて、仕事上は組織の人たちと連携しなければいけないといっても、とある団体事務局の一人だけの専従の仕事だ。周囲へのかかわりは限られているから、視線を外側ではなく、内側に向けて自分の仕事だけに集中すればいい。身体を膨張させることではなく、自分の物理的身体にまで縮減することが求められる。

膨張した身体の運用と、縮減した身体の運用とでは、身体技法上の技術がまったく異なるわけだから、その自覚的な切り替えが必要になる。そのコツがなんとかつかめた感じなのだ。ただ単に縮こまればいいわけではない。もはや仕事は、生活の一部分でしかない。身の丈に合った柔軟性と強度があれば、仕事の内外をうまくつなぐことができるだろう。

親が死ぬと、いよいよ死の順番が自分に回ってきたような気がする、と同世代の知人が言っていたのをなるほどと思ったことがあった。定年も似たようなところがあって、定年前には、実際には定年後の仕事があるわけだから、まだ自分の引退の順番が来たという気持ちにはなれない。定年後の仕事についてはじめて、これでもう仕事が終わるかもしれないということが切実に感じられるのだ。

どんなに忙しかったり、充実したりしていたとしても、これは残された人生を生きるための一手段でしかない。生活こそが重要だ。そんなわけで、この一か月も、従来以上に仕事外の人間関係に足を踏み出すことに積極的だった。読書会や美術展など、五つの場所に関わって、対話を始めたり、継続したりすることができた。それをきっかけに新しく始めたこともある。

ゴールデンウィーク中に、定年前にケリをつけることができなかった部屋(とくに本)の整理を行う予定。