大井川通信

大井川あたりの事ども

自分史という場所

今日は、吉田さんとの勉強会である「宮司の会」。前回僕が苦し紛れに取り上げた「ガチャガチャ」論が、吉田さんの琴線にはひっかかってくれたようで、「自販機」と「駄菓子屋」についてのレジュメをもらった。

吉田さんは映像の専門家であり、自分なりの映画史を完成させることと、映画関連の資料を収めた私設図書館をつくることを目標にしている。ここまでは、映画の会や9月の会での付き合いの中で、わかっていた。映写技師として映画にかかわり、映画についての知識と資料をどん欲に収集してきた吉田さんは、素人目にも、そのくらいの本格的な野望をもっているのは当然に思えた。

ところが二人きりの勉強会を始めてみると、次第に吉田さんの「化けの皮」がはがれて、中にはもっとすごいモンスターが何体も入っていることに驚かされた。吉田さんは、子どもの頃にまずテレビについての徹底的な研究をしている。漫画やアニメにも相当の経験と知識をもつ。漫画家の星野之宣(1954-)の専門家といっていい。

前回は、かつて駄菓子屋で販売されたアニメの「ミニカード」については、全国有数の収集家であり研究家であるという新たな実体が明らかとなった。なんじゃそれ。

今回のレジュメから引用する。

「駄菓子屋は、映画の歴史とともに今後も探求すべき研究課題であると思っている。この『駄菓子屋論』も自分史の一項目として完成させなければならないと、調査研究と執筆を急いでいる。その中にあって、常に気になっていたのが自販機である。小学6年生の時に自販機の種類と分布調査のレポートを試みたことは先に述べた通りであるが、子どもの頃からの思い出の中に必ずといっていいほど映り込んでいる自販機とのかかわりは、一度どこかで展望しておかねばならないと思っていた」(下線は引用者)

吉田さんにとっての「自分史」というものは、射程が広い。「思い出のなかに映り込んでいる」ものすべてが対象になるといっていい。相当に「捨て目」が利いているのだ。

では、吉田さんにとってなぜ「自分史」を完成させる必要があるのか。思い出の中の諸事象をわざわざ「展望」する必要があるのか。これは分量からいって見果てぬ夢だし、そのほんの一部だけを実現させ続けることしかできないはずだ。にもかかわらず、それを目指すのはなぜか。

それは、思い出の中の事物に命を吹き込み、再度出会い直すために必須の作業だからだ。かつて存在していたものたちと再び生き直す場所。それが吉田さんにとっての自分史だし、映画史すらその一部でしかないのだろうと思う。

 

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