大井川通信

大井川あたりの事ども

中心軸を探り当てる

コロナ肺炎の闘病で自分なりに覚悟が固まったと思ったが、退院後一か月過ぎたあたりから、(おそらくは)治療薬ステロイドによるドーピング効果が消えて、頭と身体の働きが鈍くなってしまった。後遺症の倦怠感や疲労の影響が、遅れて出たのかもしれない。

不調の状態が一か月続いた後、8月半ばくらいから、徐々に事態が好転して、前向きな取組みができるようになった。ゲンゴロウとの衝撃的な出会いに続く田んぼ調査。念願の大著の読了。コロナワクチン接種や介護研修、資格試験の手配。

いよいよ九月を迎え、今後自分がどうするのか、そのために退職までの7ヶ月で何をすべきなのか、をあらためて考えてみようと思った。その助けになったのが『無痛文明論』のなかの「中心軸」という考え方だ。

自分が若かったときから、本当にやりたかったこと、夢中になってやれたことはなんなのか。それこそが、目先の「安全・安心・安楽」を超えて、痛みをともないつつもやりがいをもって取り組むべきことの方向を示している。

僕はまず、ノートの一頁に、自分が今まで夢中になって取り組めたことを列挙した。自分が好きだったこと、大変でも充実していたこと、心からやりたいと思えたこと、ずっとこだわって継続してきたこと。

次に、その箇条書きをながめながら、一見ばらばらに見える事柄のつながりを考えてみた。共通点のあるものを同色のマーカーで塗ってみると、最終的に三つのグループに分けられるように思えた。

見開きのノートの次の頁に、その三つの領域に自由に名前をつけながら、その三領域の関係をとりあえず図示してみる。自分で注釈を加えながら、三色のマーカーによる図にさらに改良を加えていく。フリーハンドの書きなぐり図による思考は、僕の数少ない持ち味の一つだ。

あらかじめ言い訳をしておくと、三領域といい中心軸といっても、僕の場合あきらかに中途半端で、人に誇れるようなものでは全くない。それはこれまでの生き方の成果だから仕方がない。そのとぼしい成果をとりまとめて、これからどう生きていくかが肝心なのだ。

僕には、モノへのマニアックなこだわりがある。本もそうだし、おもちゃやオマケ、手品や古建築、鳥や虫やビーチコーミングの収集物など。一方、人々とのつながりや役立ちへの関心もある。ボランティアや勉強会、読書会、サークル活動や仕事上のかかわりなど。モノへの快楽は、自分の内側で充足し、ヒトへの憧れは自分の外部を目指す。

また、一貫して、言葉で了解し表現することへの志向があった。それは小説や思想の世界に自由に遊んだりのめり込んだりするという言葉の世界の自立的な展開ではなくて、自分のこだわりのあるモノや人とのつながりについて、自分なりに納得したり働きかけたりするために道具として言葉を必要としたというのが真相に近い。

つまりモノ(内)とヒト(外)とを媒介するためのコトバ、という構図になる。モノの軸とヒトの軸とを同時並行的にコトバの軸で巻き込んでいく、という動態が、広い意味で僕の中心軸となるような気がする。

こう書くとあまりに抽象的すぎるようだが、「大井川歩き」という試み自体が、すでにこの中心軸を具体化するものだったような気がする。足が届く範囲の土地を限定し、その中で様々なモノとヒトと出会い、それをコトバによって了解・表現し、つながりを深めていくということなのだから。