大井川通信

大井川あたりの事ども

「都会人のための夜の処方箋」 ケストナー 1930

どのバスでもいい、乗りこむこと。/いちど乗りかえてもかまわない。/行先は不問。いずれわかってくる。/ただし、夜を厳守すること。

いちども見たことのない場所で/(当件にはこれが必須の条件)/バスを降り、闇の中に/身を置くこと。そして待つこと。

眼につくものすべての寸法を取ること。/門、破風、樹木、バルコニー、/建物、そのなかにすむ人間。/冗談でやっている、とは思わないこと。

それから街を歩くこと。縦横無尽に。/あらかじめ見当をつけないこと。/たくさんの通りがある、じつに多くの!/どの角を曲がろうと、その先にまた多くの。

散歩にはたっぷり時間をとること。/いうなれば高尚な目的のため、/忘れられたことを呼び醒まそうとするのだから。/一時間もたてば十分だ。

そのときはもう、はてしない通りを/一年も歩いたような気になるだろう。/そして、自分が恥ずかしくなってくるだろう、/脂肪過多の心臓が。

このときふたたびわかってくる、幸福に眼をくらまされず、/心得ておくべきことが。/自分は少数派なのだ! とうことが。/それから最終バスに乗ること、/バスが闇に消えないうちに・・・・

 

※ 読書会の課題図書の『ドイツ名詩選』( 生野幸吉・桧山哲彦編1993)から。18世紀半ばから20世紀半ば過ぎまでの約200年の間に作られた82編の詩によって編まれている。海外の詩は敬遠してしまいがちだが、こうして時代順に並べると、日本の近代詩の歴史と並行していることがわかり、興味をひく。第一次世界大戦後の世界規模の資本主義の確立と都市化の時代の詩は、まさに同時代の地続きの現実を詩にしているようで、共感できるし、あいまいなところもない。とくにケストナー(1899-1974)のこの詩は、都市生活の精髄を描き、それを左翼活動家の観点から描くブレヒト(1898-1956)の「痕跡を消せ」とともに秀逸だ。