大井川通信

大井川あたりの事ども

翻訳詩を読む

読書会の課題図書で、ボードレールの『悪の華』(再版 1861)の安藤元雄訳を読む。僕はもともと翻訳された詩というのは、まがいもののような気がしてあまり読む気がおきなかった。

若き芥川が、「人生は一行のボードレールにも若かない」とつぶやいた頃は、出版後まだ半世紀だから、同時代の作品としての共感が可能だったのかもしれない。それからさらに一世紀が経った現在に、翻訳を通して読んでも、とてもその一行がリアルな人間の人生に値するとは思えなかった。

それでも何とか全部を読み通して、好きな詩を3篇選び出して会に参加した。会では、参加者が選んだ作品について、全員が順番で感想を言わなければならない。

その時、なんとか読みの手がかりにしたのが、僕になじみのある日本の近現代詩人たちだった。たとえば、ある作品は朔太郎のある種の詩によく似ている。あるいは、別の詩は、どこか村野四郎の詩を思わせるところがある。さらに別の詩は、丸山薫の発想に近い。中には、吉岡実の名作にイメージと言葉使いとで共通点のある詩さえある。

こんなふうに考えるのは、実際は本末転倒だろう。ボードレールこそ近代詩の開祖であり、日本の近代詩人こそその影響下にある。ただし詩を読むということは、ある詩をよいと思うことは、文学的な知識を学んだり、その系譜をたどったりすることで経験できることではない。

自分の手持ちの札を使って、自分に今ある感性の領野を広げることで、かろうじてたどり着くことができるようなやっつけ仕事みたいなものだろう。そう考えると、今まで遠い存在に思えた翻訳詩も、自分なりに読み込んでいくやり方がわかったような気がする。