大井川通信

大井川あたりの事ども

ことばを贈る・ことばで送る

親しい人の最期をどんなふうに見送るのかは難しい。僕は両親を見送ったが、どちらも東京にいる姉に全面的に頼らせてもらい、仏式の葬式を出した。親せきや友人が主体のとてもよい葬儀だったが、檀家でもない見知らぬ僧侶に依頼せざるをえないことには、ちょっと不思議な感じがした。

しかし、それによって葬式のカタチが整って、参列者とともに粛々と故人を見送ることができたのは、むしろ満足していたし、感謝の気持ちもあったような気がする。宗教の儀式に頼らずに人を見送ろうとしても、そのイメージがわかないのが正直なところだった。

数年前我が家の初めての猫のはっちゃんが死んで、近所のペット葬祭場で荼毘に付した。家族だけで泣きながらはっちゃんを見送ったとき、はじめて宗教的な儀式抜きで別れを悲しむということができることを実感した。

年長の尊敬できる知人が、先月長く闘病していた奥さんを亡くした。無宗教という案内を知って、一般の葬祭場でどんな式をするのだろうと気になった。彼は、長年中学の教師をし、同和教育などの実践を積み重ねてきた人で、とりわけ言葉を大切にしているのがうかがえた。

通夜の席では、この記事と同じタイトルの6頁の冊子が配布された。急な訃報に対して、職場、サークル、大学の友人や親せきの人たちから寄せられた言葉が掲載されており、「〇〇の仲間たちから」という小タイトルが付されている。彼が、言葉とともに仲間を大切にしていたことに思い至る。

それらの言葉を、参列している人は実際に読みあげ、遠方の人などは司会者が代読した。喪主である彼も、最後のあいさつで、感情のふるえを隠そうとはせずに、無念さを言葉にしていた。

文字通り、言葉と仲間でおくるよい会だった。