大井川通信

大井川あたりの事ども

『流浪の月』 凪良ゆう 2019

地元でビブリオバトルを開催するグループで、少人数でオンライン読書会をしてみようという提案があり、経験者の僕がとりあえず運営や司会を担当することになった。課題図書はやはり読みたい本がいいだろうと希望を聞くと、この本の名前がまっさきにあがった。

本屋大賞」受賞作だそうで、ビブリオバトルでも高評価だったようだ。面白い本であってほしい思いながら読んだが、なかなか読むのがつらく、僕には欠点が目に付く作品だった。さすがに最後まで読み通すと、作者の狙いもはっきりして、それなりのもりあがりとともにハッピーエンドを楽しむことはできたが、どんなもんだろうか。

この小説の評価が高いのなら、今の多くの読者が小説に期待しているものと、僕が求めているものとの間にけっこうなずれがあるような気がする。ミステリーを味わうのに、人間の描き方の深さや動機のリアリティを第一に求める人はいないだろう。それと同じように、この作品も設定の独自さやストーリー展開の巧みさ、構成の意外さを楽しむものであって、いかに人間が深く描かれているかを判定基準にすべきではないのだろう。  

課題を提出する司会者としては、そのずれを修正し、公正中立な進行をする覚悟が必要だ。そのためには、まず自分の素のままの読みを提出して、毒を吐き出してしまおう。

作者のねらいはこうだろう。大学生による少女監禁事件がおこる。救出された少女は理不尽な暴力を受けてトラウマをもった可哀そうな被害者だし、小児性愛者の犯人は、更生の困難な性犯罪者だ。事件はそのように処理されるし、世間からのレッテルはそうなる。

ところが、主人公の少女更紗の視点からのリアルはまったく異なる。「監禁」は少女が大学生の文にお願いしたものだったし、生活の場では嫌なことを強制されることもなく、とても気持ちがよく居心地のいい関係だったのだ。彼女にとってつらかったのは、むしろ預けられた家庭での中学生からの性的ないたずらだったり、周囲からの「被害者」に対するステレオタイプの思いやりだったりした。

多少DV傾向と身勝手なところのある「亮くん」と同棲し、結婚へと追い込まれていくなかで、偶然偽名でカフェのマスターをしている文と再会し、理想化された二か月の共同生活の幻を胸に文への突撃を開始する。この時点では、更紗の思いが、現実に足場のない幻想でしかないということは、読者の目には明らかだ。

「婚約者」の亮を傷つけることへの配慮がないことは仕方ないとしても、過去を伏せて仕事をしている文に近づくことが、文の生活に深刻なダメージを与えてしまうことがまったく視野に入っていない。嫉妬した亮がどんなことをするかは想定できるだろう。まして文のマンションの隣の部屋に引っ越してしまえば、亮からのいっそうの攻撃ばかりでなく、文の今の恋人との生活まで危険に陥れていまうことになる。こうした現実的なリスクが目に入らないなら、一方的なストーカーであり「やばい人」と認定されても仕方がない。

なぜ、更紗はこんな一方的な思い込みに突っ走るのか。作中の設定の中で唯一それを説明できるものは、更紗と母親(あるいは父親)との関係だ。

母親は、更紗を否定することなく、何でも好きなことをさせてくれる。更紗は、自分が否定されずにやりたいことができる「自由」を植え付けられるのだ。だから不意の父親の死のあと、母親がその「自由」によって家を出て行ったとき、更紗は自分を捨てた母親の行動を非難することができない。本来母親に向けられるべき否定の気持ちを、自分に多少の不自由を強いる周囲にぶつけることで、この母親の洗脳は生き延びる。

そうした中で出会ったのが、かつての自分の家庭を思わせるような居心地のいい文との共同生活だった。更紗は、父母の消失のあと唯一再現可能なユートピアを期待させるものとして、文に向かわざるを得なかったのだ。この時に周囲の助言はすべてうっとおしいおせっかいであり、亮のことも、文の恋人の谷さんのことも、さらには文の現実の生活や立場のことすらも、実際にはどうでもよかったわけである。

ここまでで、300頁。展開にうんざりしながら読むしかない内容だ。ところが、最後の50頁で著者はどんでん返しを仕掛ける。

これまで影が薄く、更紗からさえ単なる「ロリコン」とレッテルを張られていた文が、性的な疾患をもっており、小児性愛というのも一つの仮面だったことが明らかになる。複雑なコンプレックスの渦中にいた文にとっても、あの「監禁事件」の二週間は特別な時間だったのであり、自由気ままにふるまう更紗の存在に救いを感じて、そのあともずっと彼女を思い続けていたというのだ。

終わりよければすべてよし。更紗の一方的で身勝手に見えた猪突猛進も、それを待望していた文の存在がある以上は、現実的で合理的な行動になる。真実の結びつきのまえには、亮も谷さんも邪魔者であり身を引いて当然ということになるわけだ。やれやれ。

最期にプロローグと同じ場面にもどり、更紗の元同僚安西さんの娘梨花と更紗と文との三人のファミレスでの会食のシーンになる。この小説のなかでは、子どもをほったらかしにする安西さんも、更紗の母親の系列の人で、肯定的にあつかわれる。相手から距離をおいて、相手のなすにまかせて干渉せず、自分の好き勝手を手放さない。こうした関係の「やさしさ」や「居心地のよさ」がひたすら称揚される。

これは名前のない新しい関係なんてものではない。名前を付ける必要のない関係。名前によって他者とかかわることを拒否した関係なのだ。それが可能なのは、更紗と文のような、阿吽の呼吸でありえない両想いを実現してしまうような物語の世界の中だけだろう。