大井川通信

大井川あたりの事ども

『チベットのモーツァルト』(中沢新一 1983)にケリをつける

昨年で『構造と力』が出版40年ということだから、中沢新一のこの本も、すでに文庫化はされているが同じく出版されて40年を過ぎたことになる。

1983年は、僕も大学の最終学年になって、他大学の今村先生のゼミに参加したり、自分の大学で法社会学のドイツ語原書を読むゼミを取ったり、一方で就職ゼミに入りつつ慣れない就職活動に苦戦したりといろいろあがいていた時期だった。

そういう中で、今村先生が紹介に一役買った「浅田彰」の登場は鮮烈だったし、その後の人生の中で自分がいわゆる「ニューアカ世代」に属していることを自明なアイデンティティだと思ってきた。ただ実は、当時浅田彰と並び称された中沢新一の本書を僕は読んでいなかった。これは、ニューアカ世代を名乗る身としては肩身が狭い。

それで今回、『構造と力』の再読とあわせて積読の単行本を取り出して読んでみた。還暦を過ぎて、人生の宿題を果たした思いがする。

読み終えたことに満足感があるが、一応中身に触れると、特に前半の中核となる三つの論文の書きぶりがかたくて重い。当時は読んでも歯が立たなかったと思う。クリステヴァドゥルーズらの理論を参照する比重が多く、自身のチベット仏教や呪術の研究・実践との振れ幅が大きすぎるのだ。もっともこれが当時ニューアカデミズムの旗手と持ち上げられた理由だろう。

中盤に「風の行者」の不思議で魅力的な描写がでてきてほっとする。後半のエッセイ風の文章になると、後年の中沢らしい明瞭さが出ていてわかりやすい。要するに、言語の暴力的な秩序から逃れる純粋な差異の運動に身をゆだねよう、というようなことをきらびやかなレトリックでさまざまに変奏していくわけだ。

僕は今、仏教の勉強に力を入れているから、その面で参考になることはある。しかし、本書に『構造の力』のようなアクチュアリティを感じとることはできなかった。ポスト構造主義の同じようなロジックを扱っているようで、社会理論の不在がその後の明暗を分けたような気がする。

95年のオウム事件により、中沢と類似の身体技法と論理を駆使する宗教団体の暴走が明らかになって中沢理論の評価に大きく傷がついた。一方、80年代のスキゾキッズが担った日本社会が長期的な停滞に陥りながらも、浅田理論がしぶとく生き延びてきたことは驚くべきことのように思う。