大井川通信

大井川あたりの事ども

『真贋』 吉本隆明 2007

吉本隆明(1924-2012)の忌日(横超忌)が旅行中だったので、新刊書店で手に入る文庫本を見つけて、読んでみる。吉本82歳、晩年に多かったインタビュー本だ。体調を悪くしてからのこの手の本づくりを批判している人もあったと思うが、実際に読むとその批判の意味がわかった気がした。

「どんな人生にも役に立つ究極の本です」という大げさなコピーの帯の裏には、吉本ばななの「自分の親の本だということをのめりこんだ。この本を持っていれば普通の意味での迷いは消える。自分の人生に寄り添ってくれる稀有な本だった」という賛辞が引用されている。実の娘がここまで書くのだから、いい本なのだろうと期待は高まる。

ところが、とてもじゃないが、帯の言葉に釣り合うような本ではなかった。むしろ吉本の良いところを見つけるのが難しい本だった。昔からの愛読者なら、吉本のわかりやすいインタビューは難解な著作への入り口として歓迎されていただろう。いろいろな深読みの対象になった。

ところが、このインタビュー当時すでに、吉本の仕事の本体はリアリティのあるものとして残ってはいない。その重しが不在の場所では、吉本のしゃべる言葉はそのままの内容で受けとめられるしかない。そうすると自分の経験や価値感を絶対視して振り回す高齢者の放談のように見えてしまうのだ。

もちろん、年齢を重ねれば若い世代とズレていくのは仕方のないことだろう。しかしそのズレを通じてでも届く普遍的な要素があまりに少ない印象なのだ。吉本に先入観のない若い読者が、本の内容にうんざりする表情が目に浮かぶ。

1ページ目から、いじめる方もいじめられる方も「問題児」だというぎょっとする発言が飛び出す。しかも吉本自身はいじめっ子だったというのである。だから、いじめられる子の気持ちがわかるはずもなく、恐縮した雰囲気でからかいやすかったというのが後者が「問題児」であることの説明のすべてだ。これなど、現代の倫理観からはとうてい受け入れられない発言だろう。それも本質を深く考えたうえでの逆説というものではなく、単なる旧世代の日常感覚の垂れ流しという印象なのだ。

吉本の理論的な背景(ヘーゲル主義)がうかがわれる発言もある。人間は動物から離れていくのが本質だから、嫉妬の感情も、外見を気にすることも動物性の表れなので今後消えていくのではないかという奇妙な診断だ。吉本らしいといえばそうだが、納得できる見解ではない。

その時代時代でみんなが重要だと思っていることに自分を近づけることを大切にするという言葉には、吉本らしい思想原則(いわゆる「大衆の原像」論)を読むことができるが、こんなふうに平易に言い換えるとその核心がとけてなくなってしまう気さえする。

そのあとに続けて、自分の身体の衰えや奥さんの病気、子どもの生活を懸念し、考える(書く)ことで解決を模索するという方法が書かれているが、これはとてもまっとうなことだ。そのまっとうさを大切にするということなのだろうが、一級の思想家の知恵として少し物足りない気がする。

往時の吉本思想の魅力とは、本人の鋭利な思い込みと、一部読者の過剰な評価(一体化)と、戦後社会の急激な変容との三点によって展開される「幻想の三角形」の広がりのダイナミズムにこそあったような気がする。その三角形が消失したあとの吉本の肉声をさらすのは、かなり残酷なことのようにも思えるのだ。