大井川通信

大井川あたりの事ども

贈与としての学び

姉と父母の墓参りをしてから八王子に寄り、午後に国分寺に戻る。夕方から駅前のデニーズで、かつての同僚である教育学者の大村さんと話をする。

大村さんからは、新著の意図として、図表に頼らず言葉で懇切に説明すること、教育界の目下の流行語である「個別最適化」に対する批評をこめたこと等、興味深い話を聞く。「教える」ことを教えることのパラドックスや、カタカナ概念が根付かない問題、教育行政における優先順位の勘違い等、大学にステージを移したとはいえ、教育界の病根をえぐる議論は相変わらずさえわたっており、頼もしかった。とくに身近に学生や若い研究者と接している経験からの、「学び」の変質の指摘は刺激になった。

今回僕が大村さんに問いかけたかったことは二つある。

一つ目は、新著の中でも「共同体感覚」と総括される教育の中身に関する扱いだ。これらは、慣習や社会生活のルールという次元を超えて理念として高める必要があるのではないか、という点。近年もてはやされている欧米由来の「自由」に匹敵するような原理としてとらえなおさないと、様々な不都合が生じるだろう。(たとえば、皮膚感覚として了解が難しいはずの「自由」をわかるとしてしまう自己欺瞞が、わかる・わからないという感覚を壊してしまうのではないか、というポイントは大村さんも同意してくれたように思う)

二つ目は、これに関連して、大村さん自体の学びが、「自由」よりも「共同体感覚」に根差したものではないかという問いだ。大村さん自身を今のポジションまで引き上げた独自で魅力ある(この意味で未来的な)学びのスタイルは何に由来するのか。

大村さんの幅広い関心領域は、大学や研究サークルや付属小等の環境でその都度与えられたものを意欲的に受け取ったことに基づいている。一方、大村さんへの高い評価は、幅広く学び取ったものを、その都度の惜しみなく手渡すという態度に基づくことを、大村さんの話から確認することができた。

自分の自由な興味関心を出発点にして、より差異化、細分化された領域でオリジナルな研究成果を生み出すという公認された学びのスタイルとは、およそイメージの違うものが、大村さんの学びの真相にはあるような気がする。

与えられたものをよりよいものにつくりかえ、今度はそれを与え返していく学び。恩と恩返し、あるいは恩送りとしての学び。贈与構造の中での学び。学び自体が欧米由来の分析的で反省的な手法を使いこなすものであっても、その根底に豊かな「共同体感覚」が息づいていることは間違いないように思える。