大井川通信

大井川あたりの事ども

傘一本

朝の通勤電車はたいてい立っている。偶然前の席があけば座れることもある。夕方は一般の通勤客より少し早い時間なので、途中からでも座れる確率は高い。いずれにしろ40分程度の乗車時間だから、特に困ることはない。

今朝、つり革につかまって本を読んでいると、とある駅で、90歳くらいのおばあさんが乗ってきて、入り口に近い端のシートの前に立った。シルバーシートとは反対側だが、たまたまそこにスペースがあったのだろう。

目の前には、セーラー服の女子高生が座っている。かなりの高齢はおばあさんの姿にすぐに気づいて、声をかけて席を譲った。おばあさんも感謝してそこに座る。女子高生は、扉の脇のポールに背をもたせるように後ろ向きに立った。たぶんその姿勢が楽だったからだと思う。

何駅か過ぎて、おばあさんが席を立って降りる。本当は席を譲った女子高生が右隣りに立っていたのだが、視力も弱っているおばあさんはその姿を見失ったいたのかもしれない。とくに声をかけることもなかったから、その席には前に立つ別の若い女性が座った。

リセット。女子高生の好意と行動がつかのま開いた「人助け」の空間は、あっけなく元に戻って何事もなかったような日常に戻った。

おばあさんと、女子高生と、それを見ていた僕の胸のいくらか暖かいものを残して、何の変哲もない、順番に座り、順番に並び、順番に出ていく味気ない日常の世界に戻ったのだ。その暖かいものも、それぞれが電車を降りて、学校や病院や職場やらの目的地に向かう時には、ほんの痕跡くらいになっているだろう。

金光大神のあとをついで広前に座った金光四神様は、教祖の取次の道を唐傘一本に例えている。雨の日には、唐傘一本で楽になれる。その傘一本を指しかける、それでいいのだと。この話を、僕は渡辺順一さんの本で知った。

いつもの通勤電車の中で、小さな「傘一本」が開かれて、何事もなかったようにまた閉じられる。その振る舞いも「取次」であり、そこに顔を表したものこそ「神」なのだろうと思う。