大井川通信

大井川あたりの事ども

『死ぬ力』 鷲田小弥太 2018

たぶん、特別な事情がなければ、鷲田小弥太(1942-)の本を今さら購入することはなかったはずだ。玉乃井の小さな本屋さんで、何か一冊軽めの本を買おうと探したときにたまたま鷲田の新書が目に入ったのだ。他に候補がなかったし、老境の鷲田が目前の死を考察したら面白い本になるかもしれないと期待もしたのだ。

その期待は見事に裏切られた。本は通常運転で、おそらく大量に書くために身に着けたブツ切りの文体と、細切れの章立て。エピソードトークが脈絡なく放り込まれる。軽めの文体と内容なので、ほとんどストレスなく読み進められるのだが、読み終わって見事に何も頭に残らない。死に臨む人間の力について、際立った認識が皆無なのだ。

転んでただで起きるわけにはいかないので、鷲田について仮説を二つ立てよう。鷲田は哲学者だ。彼の出発点はマルクス主義哲学だから、それが無力であるのはわかるが、彼は貪欲にそれ以外哲学を学んでいる。スピノザについての研究書も出版している。にもかかわらず、死についてこんな本しか書けないということは、哲学の知識がみずから考えることにほとんど役に立たないことの証左だろう。これが一つ。

鷲田は、中学になるまでほとんど読書の経験を持たなかったという。実家にも学校にも本が乏しかったのだ。しかし研究・執筆を始めてからは大量の本を読み、200冊に及ぶ著書をもっている。書評集も多いが、それ以外でも読書の報告みたいな本が大部分だ。

にもかかわらず、この本には根本的な論理性が欠けているような印象を受ける。散漫にあれこれのトピックに触れているだけで、テーマの解明に向けて一本筋の通った論理の展開が不在なのだ。これはなぜか。

僕は、論理性を身に着けるためには、小学生くらいまでの時期に大量の文章を読むことが必要であるという仮説をもっているのだが、鷲田の論理性の欠如はこの仮説を後押しする事実に思えるのだ。もちろん彼は研究者として論理的に書くトレーニングは受けたはずだが、自分の呼吸で大量に文章を書く方法を採用する中で、もともとの地金が現れてしまったのではないか。

鷲田小弥太は不思議な人だ。今村先生と同年生まれで、マルクスをベースにした評論家ということで学生の頃から気になっていた。今村先生や柄谷行人を評価してライバル視する発言もあった。90年前後には、柄谷ばりの(ポストモダン風の)社会主義論を書いていて、それは面白かった。(当時の現代思想論や社会主義論は読み返してみたいと思う)

しかし彼の人物評価は異様でよくわからなかった。吉本隆明論の大著を書いて全面肯定したが、そこまで持ち上げる理由はわからなかった。一方花田清輝を毛嫌いした。左派出身なのに谷沢永一長谷川慶太郎に心酔した。この本でも谷沢が亡くなったときは、長期間憔悴して立ち直れなかったと勝いているが、鷲田の本を読んでも、谷沢を読んでも、何がいいのかまったく伝わってこない。

思い込みとこだわりが強く、それを客観視するための論理性に欠けている(にもかかわらず大量に知識とエピソードの切り貼りができる)というのが、辛辣にすぎるかもしれないが鷲田の現在なのかもしれない。

この本で繰り返し語られるのは、「長寿社会」というお題目だが、寿命が伸びたという当たり前のこと以外具体的なことは全く触れられない。老いの中身も、自分が自覚している範囲での記憶力や心身の衰えことを書いてあるだけだ。高齢になって死に至る前の大きな関門である「認知症」の実態についてすらまったく視野に入っていない。

おれは寿命が伸びた分だけ十分に仕事をしてきたし、これからもそのつもりがあるからいさぎよく死ぬ力があるのだという自慢話をしているだけなのだ。