ここしばらく面白そうな新書もスルーすることが多かった。たまに買っても積読するのがせいぜいだった。光文社新書の新刊で450頁以上あるこの本を購入して、すぐに読みだしたのは何かしらの勘が働いたのだろうが、それはまさに図星だった。
1980年代から哲学書や思想書をかじり、現実生活の中で考えるための手がかりにしようとしてきた人間にとって、間違いなく一番大切な論点のみが執拗に語られているのだ。スルーしていたら、たいへんな損失だったろう。
明治以降移入されてきた欧米の思想や概念は、彼の地の生活や日常語や信仰や文化に根差したもので、それを日本語に「接ぎ木」しても理解することは無理がある。それは日本の風土や文化(すでに根付いている仏教や儒教)に接続してわけのわからないものになってしまう。
この論点を、著者自らの体験に即して語るのがいい。徹底してフランス語とその文化を理解しようとして尋常でない努力を積み重ねてきた専門家としてのプライドを語り、そのうえで「わからない」と正直に語っていることに説得力がある。
この本に書かれてはいないが、この日本思想の接ぎ木性という論点は、少なくとも80年代頃までは常識として自覚されていたような気がする。欧米起源の思想書と現実世界とのズレは、ちょっと周囲を見回せば明らかだったからだ。
しかしポストモダンやバブルを経過し「遅れた」日本社会の文化的、経済的な二重性が見えにくくなって以来、欧米の言説がそのまま日本で通用するという楽観論がはびこることになる。アメリカの風土で研究された「学力の経済学」の結論が、そのまま日本の教育にあてはまるかのような主張や、ヨーロッパの哲学説そのままに「目的や手段」からの解放を啓蒙しようとする人気哲学者の存在に、僕などは途方に暮れる思いだった。
本書が面白いのは、AI研究の進展で浮上した「記号設置(シンボルグラウンディング)問題」によって、記号と身体と文化とが不可分であるという、あまりにもまっとうな視点が復活していることである。
しかし著者の真骨頂は、この「接ぎ木」された環境の中で、すぐれた思想家たちが、誤読と暴走の果てにユニークな思想を生み出し、自分たちの身体性にふさわしい記号設置を試みてきたことに対する共感にある。その現代の優れた成果として中沢新一や東浩紀や落合陽一が読み解かれるのだ。
こうした要約が無駄に思えるほど、本書の文体は学生に懇切丁寧に語っているように周到でわかりやすく、論点も何度も振り返りつつ確認されるので、あいまいなところを残さない。この本のおかげで、今自分が取り組んでいることについても、ずいぶん見晴らしがよくなった気がする。